[120] いくつかの異なる系統の用例が報告されています。
[121] 元正天皇は元号を制定していますから、 その治世は通常元号で紀年されますが、 後の時代の文献などで即位紀年を使った事例が、少数ながら存在します。
[116] 用例はいくつか知られていますが、少なくても2系統があります。
[132] >>131 は年表から天皇即位紀年を拾ったとしたら不自然で、 寺伝にそう書かれていた可能性があり要調査といえます。
[114] 元号名を元正天皇即位としながら、
干支年から実際には元正天皇の即位からではなく、
元正天皇の元号の1つである養老に過ぎない事例が1件知られています。
[117] 即位に異説があるわけではありませんから、 「元正天皇養老何年」 のようなものが何らかの誤りで変化したと見るのが妥当と思われます。
[118] >>114 の指摘など個別の紹介事例はあるものの、 日本の紀年法の1つとしての体系的な研究の事例は令和時代に至るまで見当たりません。
[35] >>1 は、昭和時代の研究者西田長男が収集したものです。 >>31 現在の所蔵は不明です。
[9] >>1 は、媒体の状態より書写奥書通り享保のものと推定されます。 >>31
[34] 書写奥書や本文より、日本大和国の寺社で戦国時代頃から近世にかけて使われたものであることが知られます。 >>31
[37] 戦国の山城, 馬場広幸, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/13139010/1/59?keyword=%E5%85%83%E6%AD%A3 (要登録)
元正元年 (天正)
[83] 吉田町歴史的建造物調査 寺院建築, 吉田町教育委員会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/13089599/1/55?keyword=%E5%85%83%E6%AD%A3 (要登録)
元正元年 (1573)
[86] 水登ともに (230), 水資源開発公団総務部広報課 監修, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/3213656/1/16?keyword=%E5%85%83%E6%AD%A3 (要登録)
元正元年 (一五七三)
[88] 磯並遺跡 : 静香苑進入道路第Ⅱ期工事に伴う埋蔵文化財緊急発掘調査報告書, 茅野市教育委員会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/12254880/1/52?keyword=%E5%85%83%E6%AD%A3%E5%85%83%E5%B9%B4 (要登録)
信濃史料第八巻元正元年十一月
[90] 堺市案内記, 第五回博覧会堺市協賛会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/765699/1/28?keyword=%E5%85%83%E6%AD%A3
元正元年
[91] 群馬文化 2(5)(17), 群馬県地域文化研究協議会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/6048024/1/2?keyword=%E5%85%83%E6%AD%A3 (要登録)
元正二年
[126] 免田町史 第1巻, 免田町史編纂委員会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9775501/1/353?keyword=%E5%85%83%E6%AD%A3 (要登録)
元正三年 (一五七五)。誤植と思われるが果たして?
[89] 近江国野洲郡野田村略史, 木村武則, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9570278/1/33?keyword=%E5%85%83%E6%AD%A3 (要登録)
[84] 但馬城崎温泉案内記, 結城蓄堂 (琢), , , https://dl.ndl.go.jp/pid/765806/1/33?keyword=%E5%85%83%E6%AD%A3
元正元年
[85] >>84 誤植の可能性も高いが、縁起からの引用と思われ、原典ママの可能性も。
[127] 東大寺文書目録 第6巻, 奈良国立文化財研究所, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/12157534/1/113?keyword=%E5%85%83%E6%AD%A3 (要登録)
[128] >>127 天正が並ぶ中に1つだけ元正。誤植・・・だよね?
[87] 湘南五郷の史蹟を訪ねて, 足柄下郡教育会第五部研究会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1095505/1/18?keyword=%E5%85%83%E6%AD%A3
元正元年
[36]
の著書で西田長男は、
>>1
を紹介し、
元正という年号は存在せず、
天と元の誤写は多いことから、
元正は天正の誤りと推定しています。
>>31
[72] 元正と書かれているとされる鰐口が1点知られています。
[68] 第1字は元と読むのが通説で、天と読む少数説があります。
拓本によれば字形は明らかに元であります >>54。
天と解釈するとしたら、字形類似につき元に誤刻したと主張せざるを得ません。
第1字も不明とする読みもありますが、元号名として解釈不能であるためであり、
字形は容易に判読できます。
[75] 第1字の元と第3字の元とは、接触が微妙に異なるものの、
同一の文字を意図したと考えてまず間違いないと見えます。 >>54
[69]
第2字は、多くが判読不能としています。
正と解釈する説と亨と解釈する説があります。
銘文解読上正は少数説ですが、
実際には正と読めるが元号名として解釈できないので判読不能とした、
と注釈している実見者も多いです。
[70]
拓本によれば、確かに正の楷書字形に近いものの、若干の不安も残ります >>54。
あるいは実見すればまた感触も違ってきそうにも思われます。字形がどうにも掴みどころのない、
不明瞭というか漢字として形をなしていないような、説明しがたい違和感があります。
亨と読むのは無理で、亨と推定されるのは年代比定説に基づきます。
[71]
十干は、多くが判読不能としています。
多数説は辛で少数説は癸です。
拓本によれば、不明瞭な縦横の字画が集まっており、十干の中で敢えていうなら
辛に最も近いものの、十干でなければまず辛とは読めない、
かといって他の何の文字とも断定しがたい形状です >>54。
癸と読むのは更に難しいですが、これを辛と読む可能性があるなら、
同じくらい癸と読む可能性を認めても良い、とは思えます。
だとしたら十干の他の文字と読む可能性も捨てきれないとも思えます。
[76] 元号名は素朴には元正と読めると大正時代以来大方の見解が一致しています。
[77]
ところが日本の公年号に元正が無いため、
十二支年などから元亨説と天正説があります。
一応元亨が通説となっているものの、第2字を亨と読むことに無理があります。
天正は第1字を元と読むことに無理があり、
媒体の時代感ともややずれがあります。
[79] 媒体の様式による年代の絞り込みについては、各論者とも意識をしているものの、 本格的な研究には至っていないようです。
[78] 銘文にある藤原友国は、他にもいくつか各地に用例が見られるようで、 ちょうど南北朝時代の者もいたようですが、同一人物かどうかは慎重な検討を要します。
辛に近く、癸とも解せるが、元のものが15個、亨の略体と辛ではないだろうかと推測しています。 >>27
[52] の大日本金石史は、 >>10 を紹介し、 元[亨]元年辛酉と読んでいます。 元号と干支は磨滅に近く断定できないとしながら、 >>28 が元亨元年辛酉とする説を紹介しています。 >>49
[25] の史料集は、 >>10 を紹介し、 元亨元年と読んでいます。 >>22
[48]
の史料集は、
>>10
を紹介し、
元□元年[辛]酉と読みつつ、
天正元年癸酉説の存在も紹介するものの、
元であること明らかだとし、
「
[19] の史料集は、 >>10 を紹介し、 元□元年□酉と読みつつ、 元亨と推定しています。 >>17
[16] の史料集は、 >>10 を紹介し、 元□元年辛酉と読みつつ、 元亨説を提示しています。 >>13
[21] の書籍は、 >>10 を紹介し、 「少し難解」ながらと読まれる、 としています。 >>20
[56] の史料集は、 >>10 を紹介し、 □□元年□酉と読みつつ、
[12] の史料集は、 >>10 を紹介し、 元正元年寅と読みつつ、 南北朝時代の藤原友国の作であり、 南北朝時代の様式だとしています。 >>6
[67]
の地域史は、
>>10
を紹介し、
元□元年辛酉と読みつつ、
天正元年癸酉説も紹介しつつ、
「
[111] 写本(?)に1例見えます。
[95] >>92 は明朝体の翻刻ですが、昭和時代後期の学術的な出版であり、 十分な確認を経て発行された誤植ではない用例だと信じたいところです。
[104] どこからどこまでがひとまとまりの文章なのかわかりにくいのですが、 卅三所観音記 と題して三十三所観音と花山院の関係を記載した縁起文の末尾に 「花山院入覺」 の署名があり、その日付が元正2年戊午、 という文書のように見えます。
[96]
>>94 の前の行には「
[97] 花山院と良恕法親王の間の公年号の戊午年で2年のものは、
で、どれも関係ありそうには見えません。
[103] は字形と時代が近いですが、 干支はまったく異なります。
[107] 花山院と三十三所観音を絡めた伝承は各地に残りますが、 当用例に近いものは未発見です。
[108]
>>106 は花山院と三十三所観音を結び付けた伝承ですが、
「寛和二年丙酉三月十七日」 / 「寛和二歳丙戌三月十七日」
という日付が登場し、元号名と干支は違いますが、2年3月17日で1日違いです。
(で戊と近い。)
[110] >>109 は源平盛衰記を出典としていますが、 に花山院と安倍晴明を邂逅させています。 元号名と十二支は違いますが、「2年戊」は一致しています。
[124] 花山院関連の伝承の収集などを通した諸説の発展と「元正」の出現過程の解明が望まれるところです。
[125] 現在知り得る限定的な情報から安易に断定することは憚られますが、 偽文書元号の可能性が否定しきれないとはいえるでしょう。
西国巡禮記
抑も順礼の由来を尋るに、爰に人皇六十五代の帝花山院御位を遁れさせ給ひ、御髪をおろして入覚法皇と申奉り、熊野権現の御夢の御告有りて、寛和二年丙酉三月十七日より那智山を打始め、六月一日に美濃国谷汲寺にて打納め給ふとかや(寛和二年より享保十四年まで七百四拾七年になる)。
『秋田六郡三十三観音巡禮記
抑順礼の由来を尋ねるに、人皇六十五代の帝をは花山院と申奉る。御即位の年故有て御位を遁れさせ給ふ。剰御装りをも落させましまして入覚法皇とならせ給ふ。或時熊野権現御夢の告をなし給ふによりて、寛和二歳丙戌三月十七日より、那智山を御札初として御巡国ましましけり。六月朔日美濃国谷汲寺 [p.3] にて御打納め給ふとかや。是より代々の貴賎都鄙遠国に至るまで年毎に怠轉なく心を運ふ事、誠に大慈の誓尽せぬ印ならんかし。
平安中期の寛和2年(986)、第65代天皇として在位僅か2年で退位された花山天皇は、出家されたのち永延2年 (988) 那智の滝の上流にある二の滝近くに庵を結び千日修行をされました。 その修行中、天狗をはじめ多くの悪霊の妨害に遭われたため、京より陰陽師「安倍晴明」を召されたそうで、そこに駆けつけた晴明は、「多数の魔類を岩屋に祀って諭し、その後魔類は怠慢な行者を叱咤する存在に変わった」との逸話が14世紀に成立した 「源平盛衰記』 に収められています。
(現地案内看板の写真中にも同内容)
[112] 水聲 (44);8月號, 琵琶新聞社水聲発行部, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/11207378/1/21?keyword=%E5%85%83%E6%AD%A3%E4%BA%8C%E5%B9%B4 (要登録)