日本で使われた漢土の元号

日本で使われた中華王朝の元号

[1] 漢籍翻訳対照などの当然の理由以外で日本漢土の元号が使われた事例が少数あります。

永昌

永昌

明の元号

[5] 若狭一二宮社務系図 は、 京都国立博物館に寄託されており、 東京大学史料編纂所影写本があります。 観応から延文の頃に書かれたと見られる (A) と、その後の追筆と思われる (B) に大きく二分されます。 >>2

[6] (B) で祢宜17代牟久義文 (母親は近江佐々木氏の女) の没年が「建文弐七月七日」 と明の元号であります。 この前後にはこのようなものは見い出せません。 >>4

[8] は、日本では後小松天皇の応永7年に当たります。 将軍足利義満でした。

[10] 建文は第2代建文帝の治世ですが、第3代永楽帝との内戦で建文4年に滅ぼされ、 建文元号黒歴史とされたという漢土の元号の中でも異例中の異例のものです。

[11] この争いは同時代の日本にも伝わっていたようですが 外交文書の日時 、 これを書いた人は知っていたのでしょうか。どう理解していたのでしょうか。

[7] 網野善彦は、孤例であるからには特殊な意味を考えざるを得ないとし、 後に「南番船」が着岸したような小浜のあり方となにか関係があるのではないかと推測しています。 >>4 しかしそれ以上は特に根拠となる材料も探し出せなかったようです。

[12] 当該時期の若狭において天皇室町幕府に明確に対抗する勢力があったことは知られていません。 ましてやの勢力の影響下にあった形跡はありません。 従って、何らかの反日、反政府的な勢力に与して明の元号が使われたという可能性は低そうに思われます。

[13] 将軍足利義満との関係に強い関心を持っていました。 応永度の改元でも、明の元号に因んだものを推していたとされます。 しかしながら、明の元号そのものを使おうとする動きは知られていませんし、 周囲で先走って明の元号を使い始めるような勢力がいたという話も聞きません。 また、足利義満をつなぐような特別な勢力が若狭で活動していたという話も聞きません。 よって現段階では足利義満の関係で使われたという可能性も低いと考えます。


[170] >>168 >>169 和製の刀で明国輸出のためか明の元号の銘がある事例

琉球

琉球の元号

舶来品

日本古代の日時, 大和

[16] 漢土朝鮮半島から伝来した金石銘などで中華王朝の元号が使われた例はそれなりに知られています。

[14] 元光

[15] https://nichibun.repo.nii.ac.jp/record/1168/files/symp_018__215__213_225__215_227.pdf #page=10

外交関連

外交文書の日時

関連

元号の選択, 日本の元号, 中華王朝の元号

メモ