自正

以仁王落人伝説

日時

[8] 柿花仄が出版した書籍に、 日本国新潟県刈羽郡小国町に伝わる 北原氏巻物, 高橋氏巻物 の概要の説明があります。 >>6

[10] ごく一部のみ、写真が公開されています。

[9] 北原氏巻物は、元は北原家当主も一生に一度だけ読める秘伝の書とされましたが、 昭和の末になって一族内で公開され、「解明」に取り組むことになりました。 >>6 /18

[13] 高橋氏巻物は、昭和63年8月頃、仏壇裏から出現しました。 北原氏巻物との類似性により、併せて調査されることとなりました。 >>6 /19

[14] 両書は、昭和63年春/8月から柿花仄のみが見ることを許されており、 しかも柿花仄の見解は専門家の意見を求めたものではないとされます。 >>6 /121

[15] その後専門家の調査が行われたのか、より詳しい内容が公表されたのかは不明です。

[16] 現時点では、柿花仄の解釈と極めて断片的な引用を通してのみ、その内容を知ることができます。 両書は、昭和時代末期の人々が容易に理解できないものでした。 北原氏巻物は、 紙の継ぎ目やその前後の文章に不審点があり、前後を差し替えた形跡があるといいます >>6 /19高橋氏巻物 はその形跡がなく原型が保たれています >>6 /20

[17] 両書は、源平合戦とみられる事件の描写があります。その内容から、 柿花仄以仁王が主人公と判断しました。 >>6 /20 北原巻物天王大王を称しており、 高橋巻物清和源氏を名乗っており、 以仁王源頼政に比定できるのだとしています。 >>6 /121

[109] 両書には、秘伝書の日時に見られる独特の元号がいくつか含まれるようです。


日時事例

  • [18]自正吉元年甲午ノ年>>6 /122

[20] >>18 の年、天皇出家を宣言し、小川庄の御所を出発し、 紀伊国牟婁郡音無川の麓に到着すると、 熊野権現らの化身が表れたといいます。 熊野に戻って仏に仕える決意をし、出発しました。 >>6 /122

[19] この日付について、柿花仄元号名自正で、 治承を指すと判断しています。 >>6 /20 その根拠は次の通りとされます。 >>6 /122

[36] なかなかに独創的で強火の解釈ですし、「自正」が元号名であることを前提にしており、 には一言も触れずに完全に無視しています。

[37] 幸いにも >>12 に該当部分の写真があり、元号名の不思議な字形も収められています。

[50] ところで、この元号で展開されている物語が一種の熊野信仰であるのは無視できません。 熊野信仰修験/山伏行商人との結び付きが強いことが知られます。 他にも独特の元号を持つ秘伝書の例が知られています。 また、熊野信仰以外でも、 東北地方の山間部では独特の元号を持つマタギ系の秘伝書の例が知られています。 秘伝書の日時

[110] 参考:


日時事例

  • [51] 高橋巻物
    • [52]当国エウツル事上川下川鎌倉殿御チキャウナサレ申候ソノコロエフン三年水ノエ午ノ年ナリ>>6 /171

[53] 柿花仄は、鎌倉時代 (鎌倉殿知行している時)、 承久の乱が原因で高橋氏が再び鎌倉から越後に移ったと考えています。 >>6 /171

[54] >>52日付については次のように述べています。 >>6 /172

[70] 現在の通説によれば、源頼政の孫の源頼茂は、 大内守護となりますが、 承久元(1219)年7月13日謀反の疑いで追討され、 京都で自害しました。

[71] () (こう) と読み、 の訛と考えると、 「エフン」は「こうあん」と読めます。 元号年が合いませんが、転写の結果意味が取りにくくなっている文章である以上、 に転じることは有り得ないとは言えません。


日時事例

  • [72] 高橋巻物
    • [73]一多理二年丙午ノ年鎌倉殿キリ出タマイテ日本六十六ヵ国ヲ五十ヨシウキリ取タマウステニ天王サマモコレニ御ナヒキアリ御内裏サムライヲカツカツ鎌倉殿エサシコシタマウハヤ鎌倉ニ三代スマウ間タタ今ノヲモムキヲ御内裏ヨリノシウモンノヲクカキニシルシヲキ申候物ナリ>>6 /173

[75] 柿花仄は、文治2年丙午に源頼朝が六十六箇国総追捕使となったことを指すとしています。 >>6 /173

[76] 元号名は「一多理」なのか「多理」なのか、後者なら「一」はどういう意味なのか、よくわかりません。

[108] 柿花仄は、「多理二年丙午の年」と解釈し、「多理」という元号はない、 としつつ、北原巻物で相当する部分は「源平戦の砌」とあるとし、 源氏大勝後の文治2年が丙午なので、この年に比定しています。 >>6 /131 には言及していません。

[77] 総追捕使の勅許は11月のことであり、 この文をどう理解するかは若干の問題が無いでもありませんが、 文治に相当することは間違いないとみてよさそうです。

[115] しかし、どのようにして「一多理」ないし「多理」が発生したのかは検討を要します。


日時事例

  • [78]シャウチ三年藤ノマキカリノ時午シルシ仰下サレ申候コトワレラニ王チヲ仰クタサレ申候コレモソウエヤウニハカリ下サレ申候同ソシニワアルマチク候ナリ>>6 /175

[79] 柿花仄は、「正治三年 (建仁元年か)」の源頼家富士の巻狩の記事と解釈しています。 >>6 /175

[80] 正治3(1201)年2月13日建仁改元されており、 改元後のことかと理解したのでしょう。

[81] 富士の巻狩は、の5月から6月に源頼朝が主催したものが有名で、 固有名詞としてそちらを指す場合が多いようです。後世の文化に非常に多くの影響を与えています。 源頼家も参加しています。 >>84

[82] その後、 源頼家富士で3回巻狩を行った >>84 とされます。それがどれを数えたものかは不明ですが、 次のような記録が見当たります。

[90] に実施されたのかは不明です。


日時事例

[93] >>92 は、越後に入った三代目当主北原源六郎が文書を整理した日付とされます。 >>6 /177

[98] >>97 は、北原源六郎が文書を再整理した日付とされます。 >>6 /178

[94] 柿花仄は、次のように述べています。 >>6 /178

[101] は確かに混同されやすく、古代年号にもこれが交替した事例は多いので、 この見解には特に問題は無さそうです。 (記載事項が史実通りかどうかはまた別の問題。)


日時事例

  • [102] 高橋巻物
    • [103]正和元年ニフントク天王トクマノエ御サンクウナサレ候ソノ御トモワレラツカマツリ>>6 /178

[104] 公年号そのまま。

[105] 柿花仄は、文得天皇こと以仁王 (後裔の北原氏) と頼政 (後裔の高橋氏) と熊野詣に行った記事と解釈しています。 >>6 /178


[116] これらの元号は、令和時代に至るまで、私年号研究の文脈で紹介したことがありません。

関連

大道, 秘伝書の日時

メモ

[5] 高倉宮以仁王御墳墓考 - 尾瀬三郎物語と以仁王逃亡説, https://ozesaburoumotihito.jimdofree.com/%E9%AB%98%E5%80%89%E5%AE%AE%E4%BB%A5%E4%BB%81%E7%8E%8B%E5%BE%A1%E5%A2%B3%E5%A2%93%E8%80%83/

[7] 以仁王の御廟所とその令旨 : 郷土史の研究, 望月清歳, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/13219624 (要登録)

[2] 皇子・逃亡伝説 : 以仁王生存説の真相を探る, 柿花仄, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/13198061/1/1 (要登録)

[1] もちひと祭り_H28_表4_cs4 - 2016o-motihito.pdf, , https://www.city.nagaoka.niigata.jp/kankou/event/file/2016o-motihito.pdf#page=2

[3] >>1 には >>2 がきっかけで祭が始まったと

[4] 以仁王資料館へようこそ - 尾瀬三郎物語と以仁王逃亡説, https://ozesaburoumotihito.jimdofree.com/%E4%BB%A5%E4%BB%81%E7%8E%8B%E8%B3%87%E6%96%99%E9%A4%A8/