羕久

貞親, 泰平

[8] 貞親, 泰平, 羕久は、 日本の異年号です。

用例

[36] 明らかに貞観を意味して貞親と書かれた例がたまにあります。 検索で出てくるものの多くはOCR誤読で実際は貞観貞觀と書かれていますが、 たまに本当に貞親と書かれています。

木地師文書

[37] 木地師の家に伝わる縁起書・免許状で「貞観初暦」と書いて貞観元年を表したものがあります。 各地にいくつか残っているようです。それとほぼ同内容で、「貞親初暦」となっているものがあります。

[10] 木地師文書であり、惟喬親王云々の由緒が語られます。

日時事例

[45] 元号年年の字の間に干支年を挟むのは近世頃の書き方 東洋の日時表示
[18] 滋賀報知新聞, 滋賀報知新聞社,The Shiga-hochi Shimbun Co.,Ltd.,Shiga Japan, http://www.shigahochi.co.jp/info.php?type=article&id=A0028136

小椋谷に伝わる「惟喬親王御縁起」

2019年1月7日(月) |東近江・湖東 特集

いっぽう、東近江市蛭谷町・君ヶ畑町には、惟喬親王は木椀やお盆などをつくる轆轤(ろくろ)の技術を考案した方としての話がつたわる。

「御縁起」は、蛭谷町に一つ(漢文体一巻)、君ヶ畑町に三つ(漢文体一つ、和文体二つ)がつたわっている。

これら「御縁起」の全文は、すべて『永源寺町史』「木地師編・下巻」に収録されている。

まず、蛭谷につたわる「御縁起」(漢文体、約千百二十字)の冒頭部分を紹介する。

「抑、惟尊親王御位盛和天王奪取議宣親王鱗乱座宛迫身捨宣貞観初暦己卯三月五日階出白馬乗東路飛宣悉達太子壇徳(特)山飛宣不異」

以上であるが、読解が難しい。およその意訳を試みるとつぎのようになろう。

「惟尊親王(「惟喬」)は盛和天王(清和天皇)により天皇の位を奪取された。親王は身を捨て給い貞観初暦(元年=八五九)己卯(つちのと・う)三月五日、都を出て白馬に乗り東路へと飛び給うたことは、悉達太子(シッダールタ=釈尊の俗名)が壇特山に飛び給うたことと異ならない。」

つぎに、君ヶ畑につたわる三つの「御縁起」のうち、漢文体(約千四百字)のものについて見てみよう。

「謹以 惟喬親王苟位于儲弐不屑世栄欲遁身於丘壑棲心于煙霞也為僧改名算延又名素覚学密教於宗叡受悉曇安然貞観十七乙未年三月五日出水無瀬宮乗白馬東向近江路是偏不異悉達太子脱珍御潜行於壇特山也」

近代の貞親

[34] 近代の明朝体活字の出版物で「貞親」と書かれていることがたまにあります。例えば:

[40] 活字化の際の誤植の可能性も高いですが、原稿や原資料の時点で誤っていた可能性もないではありません。

諸説

[9] 貞親公年号にありませんが、他本との比較および惟喬親王関係であることから、 貞観の訛と思われます。

[47] 羕久は、承久異体字で表記されたものです。 𣴎󠄃と表記されることが非常に多く、 はその表記の一変種との認識で書かれた可能性もあれば、 誤写・誤翻刻の可能性も否定できません。 いずれにせよ、承久の一表記であって、独自の元号ではありません。

[63] 奥書が他本では承久二庚辰 / 羕久二庚辰であるところが、 >>22 では 泰平辰となっています。 また、 他本では元慶三巳亥年であるところが、 >>22 では元慶戍甲歳となっています。 泰平公年号に見当たりませんし、 元慶に戊申年はありません。

[64] 伝写による誤りと片付けるのは簡単ですが、どのような過程 (偶発的変化、 善意による校訂、 作為による改竄) でかかる異本が生じたのか、十分に考察する価値がありましょう。

[65] なお、 泰平は他にもありますが、いずれとも文脈が異なりすぎるため、 別個の元号と思われます。

[66] 改元デマ泰平が出現したのは承安2年壬辰ですが、 泰平元年壬辰であり、泰平二年壬辰と近いですが、一致しません。 >>16 は明治15年の日付があり、 改元デマ泰平の知識を何らかの手段で得ていた者の「校訂」 の可能性を完全に排除し切れるものでもありませんが、 まだ近代的辞典類の出現前であり、その種の知識の普及には早すぎる感があります。 泰平

研究史

[2] 令和時代に至るまで、私年号研究の文脈で紹介された事例は知られていません。

[62] 木地師文書としての紹介事例は全国にいくつもあるようですが、 全国規模で諸本の校合、系統分析などを試みた事例は見当たりません。

関連

初暦

秘伝書の日時

泰平 (改元デマ), 泰平 (山口)

万喜

メモ