[1] 貞観は「じょうがん」と讀むことが多いようです。 辞書類もそうしています。
[2] 「じょうかん」と讀む例もちらほらあるようです。 公的機関や学術的なものにもみられます。
[3] 数的には「じょうがん」が圧倒的に多そうで、「じょうかん」 も別の読みとして存在すると考えていいか、微妙なラインです。
[4] 「観」は漢音、呉音ともカン (クヮン) なので、 ガンになるのは連濁なのですかね
貞観(じょうがん、(旧字体:貞觀)
じょうかんすぎ
神明神社創建(貞観年間)に社頭に植えられたと伝承されているため、この名がつけられています。
杉本町神明神社にある貞観杉(じょうかんすぎ)を見に行ってきました!
『貞観政要』(じょうがんせいよう / ぢょうがんせいよう)
貞観の治
じょうがんのち
Zhen-guan zhi zhi; Chên-kuan chih chih
じょうがん‐の‐ち〔ヂヤウグワン‐〕
[12] 豊田市杉本町 杉本神明神社貞観杉(じょうがんすぎ) - 巨樹、巨木巡礼 () https://blog.goo.ne.jp/yss2141/e/f8bdb1e0095211b46f0a6b36e1c4e24f
貞観政要
その起源は貞観(じょうかん)11年(869)に悪疫退散を祈願した祇園会(祇園御霊会・ぎおんごりょうえ)にあり、
[36] 明らかに貞観を意味して貞親と書かれた例がたまにあります。 検索で出てくるものの多くはOCR誤読で実際は貞観か貞觀と書かれていますが、 たまに本当に貞親と書かれています。
[37] 木地師の家に伝わる縁起書・免許状で「貞観初暦」と書いて貞観元年を表したものがあります。 各地にいくつか残っているようです。それとほぼ同内容で、「貞親初暦」となっているものがあります。
[38] 翻刻で原史料ではないので、原文がこのままなのか、それとも誤記、誤植なのかはわかりません。
[39] このような縁起書、秘伝書の類は誤写により少しずつ違う版があちこちに残されているものなので、 出版時の誤植でなく原文に実際に「貞親」と書かれている可能性は十分にあります。
小椋谷に伝わる「惟喬親王御縁起」
2019年1月7日(月) |東近江・湖東 特集
いっぽう、東近江市蛭谷町・君ヶ畑町には、惟喬親王は木椀やお盆などをつくる轆轤(ろくろ)の技術を考案した方としての話がつたわる。
「御縁起」は、蛭谷町に一つ(漢文体一巻)、君ヶ畑町に三つ(漢文体一つ、和文体二つ)がつたわっている。
これら「御縁起」の全文は、すべて『永源寺町史』「木地師編・下巻」に収録されている。
まず、蛭谷につたわる「御縁起」(漢文体、約千百二十字)の冒頭部分を紹介する。
「抑、惟尊親王御位盛和天王奪取議宣親王鱗乱座宛迫身捨宣貞観初暦己卯三月五日階出白馬乗東路飛宣悉達太子壇徳(特)山飛宣不異」
以上であるが、読解が難しい。およその意訳を試みるとつぎのようになろう。
「惟尊親王(「惟喬」)は盛和天王(清和天皇)により天皇の位を奪取された。親王は身を捨て給い貞観初暦(元年=八五九)己卯(つちのと・う)三月五日、都を出て白馬に乗り東路へと飛び給うたことは、悉達太子(シッダールタ=釈尊の俗名)が壇特山に飛び給うたことと異ならない。」
つぎに、君ヶ畑につたわる三つの「御縁起」のうち、漢文体(約千四百字)のものについて見てみよう。
「謹以 惟喬親王苟位于儲弐不屑世栄欲遁身於丘壑棲心于煙霞也為僧改名算延又名素覚学密教於宗叡受悉曇安然貞観十七乙未年三月五日出水無瀬宮乗白馬東向近江路是偏不異悉達太子脱珍御潜行於壇特山也」
[34] 近代の明朝体活字の出版物で「貞親」と書かれていることがたまにあります。例えば:
[15] shigaku_32_50_56.pdf, , https://glim-re.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=3100&item_no=1&attribute_id=22&file_no=1 #page=3
[16] AN00106199-00000028-0021.pdf, , https://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/download.php/AN00106199-00000028-0021.pdf?file_id=64166 #page=26
[17] 15-2.pdf, , http://jsmh.umin.jp/journal/15-2/15-2.pdf#page=56