永鎭

永鎭

[1] 永鎮 (旧字体: 永鎭) は、 日本の元号とされた不明な元号の一つです。

元号名

[3] 新字体は永鎮です。

[4] 旧字体は永鎭です。

用例

日時事例

[6] >>77 によると、 に日本が明に派遣した使節との宴の場で、 武進出身の明国人で南京禮部の司務を務めていた陳端甫が、 日本使節に対して国号を尋ねました。 それに対して日本使節は永鎭8年と回答しました。

[7] 国号を尋ねて元号年を回答するのは不審ですが、 国の年号は何かという意味で尋ねたのでしょうか。

諸説

[40] 永鎭は永正の誤りと考えられていますが、 どのようにその誤りが発生したかは説明されていません。 また、両者には1年ずれがあります。

明 日本 (誤) 日本 (正)
永鎭元年乙丑
永鎭8年

[9] 明史には、 に日本から入貢があったこと、 治安が理由で南京で饗宴し帰国させたことが記載されています。 >>8

[17] 明側が使節を帰国と宴の実施を決めたことは、 明正德7(1512)年壬申2月癸卯の記録があります。 >>16 しかし、宴の実施日は不明です。

[19] 日本側の外交記録には、 6月から 5月までの4件の文書が収録されており、 明への滞在と明國政府側との交渉がこの期間を含む長期間続いていたことがわかります。 >>18

[20] 南京滞在期間の正確な記録は見当たりませんが、 正德7年4月下旬から正德7年5月の頃と推測されているようです。

[24] この推測に間違いがなければ、4月から5月の間に南京で宴が開催され、 その場で国号は「永鎮8年」と日本人が答えた、ということになります。


[41] 本来「永正9年」であるべきところが「永鎭8年」となった変化は、

... の二つの違いがありますが、それぞれ

... といった可能性が想定されます。しかし、そのいずれかであるか確定させられる史料に欠けます。

[47] 日本人使節団は明正德7年壬申時点で、年をまたいで二年目の滞在です。 その間現地人とのやり取りが必要となれば明の元号を使ったでしょう。 日本人同士または自身の記録などで年の表現が必要なら日本の元号や干支年を使ったと考えられますが、 そうした場面は日本国内にいた頃より少なくなっていたかもしれません。

[48] もしそうだとすると、四月、五月という段階になっても尚、新年の永正九年という年号に慣れておらず、 うっかり旧年の永正八年と言ってしまう、ということもあり得るやもしれません。

[49] 仮に年数がそれで説明できるとしても、八年間使い続けた元号名を間違えたり、 忘れたりするとは思えませんから、元号年の違いまでは説明できません。

[50] 正と鎮では字形はまったく似ていませんし、 日本語音も漢語音も大違いです。 単純な誤解・誤読による変化とは考えにくいです。

研究史

[11] 明の徐充 (江陰出身, 没) の 暖姝由筆 に、

正徳七年壬申日本入貢武進陳端甫為南京 禮部司無時值宴勞來使問其國號乃是永 鎮八年

... とあります。 >>10

[12] 、 明の李如一が 藏說小萃 に 暖姝由筆 を収録して刊行しました。 >>13

[14] 李如一による 暖姝由筆 序文には、著者の死後に書物が人々の手に分散して散逸し、断片しか見つからなかったこと、 徐充の子の協力で写本を探し、誤字・脱落を含む複数の写本を校訂したことが記されています。 >>13


[77] 清の鍾淵映の歷代建元考に、

乙丑日本國改元永鎮明孝宗𢎞治十八年

正徳七年壬申日本入貢武進陳端甫為南京禮部司 務時値宴勞來使問其國號乃是永鎮八年

... とあります。 >>76 >>11 とほぼ同文です。

[78] すなわちに日本が永鎮に改元したとされます。

[308] 歷代建元考の清光緒15年本では、

正德七年壬申日本入貢武進陳瑞甫爲南京禮部司 務時値宴勞來使問其國號乃是永鎭八年

となっています。「陳瑞甫」が以前の本と違います。 >>307

[309] この本は以前の本と他にも細かい違いがあります。 どちらが著者の意図に近いかは不明。光緒本には四庫全書提要が引かれており、 四庫全書本の影響を受けています。

[15] 歷代建元考 は出典を明記していませんが、 暖姝由筆 とほぼ同文であることから、 それに直接または間接に由来していると考えられます。 乙丑年の改元とするのは、そこから遡って求めたものでしょう。

[82] 清の元号略本編に、 永鎭があり、注釈として >>82 とほぼ同文、 >>21 のようなことがあります。 >>81

[52] 明治時代の古事類苑は、 逸年號の部で 元号略 から引いています。 >>51

[84] 清の元号略補遺は、 永正swc824に注釈して、 鍾續攷が永鎭に作る、としています。 >>83

[86] 清の元号略の補遺内増補部分は、

補遺日本百五代 永正謂卽永鎭則正德七年爲永鎭九年與卷二載貢使所答差一歳

と書いています。 >>79

[80] 紀元編は、 永正に注釈して、 鍾は永鎭に作る、 としています。 >>193

[35] 昭和42年の 日本私年号の研究は、 紀元編は、 紀元類聚考に永鎮とあるが永正の誤りとしている、 と説明しています。 >>33, >>37

[34] 鍾を紀元類聚考としたことは紀元編の解釈として間違ってはいませんが、 その参照先の 紀元類聚考 には疑問があります。 紀元類聚考

[39] 昭和39年の論文は、 >>35 を紹介していますが、 単独で私年号として立項してはいません。 >>33

[38] 昭和42年の日本私年号の研究は、 私年号でなく私年号的諸資料の1つとして、 次のように述べています。 >>37

[51] 歳時部/年號下〈逸年號併入〉 - Kojiruien, https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/index.php?%E6%AD%B3%E6%99%82%E9%83%A8/%E5%B9%B4%E8%99%9F%E4%B8%8B%E3%80%88%E9%80%B8%E5%B9%B4%E8%99%9F%E4%BD%B5%E5%85%A5%E3%80%89#content_1_358

永鎭(○○) 日本〈未レ知二何主一、明正徳七年、日本入貢、南京禮部司務陳瑞甫問二其年號一、乃是永鎭八年、其改元當二弘治十八年一、〉

◯按ズルニ、明ノ弘治十八年ハ、我ガ永正二年ニ當レリ、

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メモ