寛七年

用例

日時事例

[10] 銘文は銅に彫られています。 >>23

[6] swc742の字は、縁取りのように二重で中空に彫られています。 >>23

[7] 異年号考 によると、 この寶塔穂積保の所蔵でした。 >>23

[8] その後の所在は不明です。

[9] 寶塔の中には銅像が1つありました。仏像ではなく、 何の像か穂積保にはわかりませんでしたが、 房總志料 掲載の上総国夷灊郡山田村時雨臺で発掘された銅像で惠美子の像であると断定されるものに、 似ているのだといいます。 >>23

研究史

[4] 江戸時代の研究者穂積保異年号考 (序) 寛七年 が現在知られる初出です。 >>23

[5] それによると、 信濃国岩村田での出土です。 出土の経緯は不明ですが、 穂積保岩村田の研究者吉澤好道と親交があり、 私年号に関する情報交換を行っていましたから、 そのルートと思われます。 宝寿

[11] 異年号考は、この元号は不明で、 銅に彫られているので脱字があるとも思われないとしつつも、

とし、寛正七年丙戌のときだろうか、不明である、としています。 >>23

[17] 江戸時代の研究者伴信友逸号年表補考は、 作寛七年 として立項しつつも、 は作ったという意味で元号名の一部ではないとし、 の後に1字が欠けているのだろうとしています。 >>16

[22] 明治時代の研究者栗田寛逸年号考 (稿) 寛七年 は、 異年号考 を踏まえた上で、 元号略号の事例を紹介し、 同様に1字に省略したものではないかとしています。 >>19

[26] 古事類苑は、逸年号考を引用しています。 >>25


[29] 明治41年の国史大辞典は、 私年号の1つとしてを掲載し、 寛正の略か、として寛正元年に比定しています。 >>30

[31] その後も近代のいくつかの辞典類には掲載されるものの、 掲載されないものが増えていきます。 >>30

[32] 理由が明確に語られることはありませんが、 公年号の省略形に過ぎないと判断されたのか、 私年号研究の場では取り扱われないようになっていきました。

関連

正見

[35] 時系列 :

メモ

[33] 三十番神信仰の盛んな時期ということも寛正説には有利なのでしょうが、 それにしてもヒントが少なすぎで、根拠が不安定に思われます。

[34] 実物が行方不明なので、様式論からの編年が困難なのも問題。

[45] 寛正7年6月とすると4ヶ月の延長年号になるのも、悩ましいポイントです。 この時代ならないとも言い切れず。


[27] 野村宗貞と楯無堰 : 楯無堰開削者野村宗貞の復権, 浅原勝芳, 楯無堰土地改良区 共著, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/11993634/1/33?keyword=%E5%AF%9B%E4%B8%83%E5%B9%B4 (要登録)

[28] >>27 現代の誤植でたまたま「寛七年」となったもの