実正

徳応 (中世東国私年号)

元号名

[19] 読みは 「とくおう」 とされます。 >>11, >>18, >>390, >>178

用例

茨城県下の用例

日時事例

埼玉県下の用例

日時事例

[206] 拓本は文字が不明瞭です。

[207] 第1字はと読まれており、確かにそう読める字形ではありつつ、明確ではありません。

[208] 第2字はのように読めます。

[209] 残りは目を凝らすと「七月 日」のように読めますが、周囲のノイズに飲まれてわかりにくいです。

日時事例

[193] 拓本によると、字形は比較的明瞭な部分が多いですが、よくわからない文字が多いです。

[194] 第1字は一応と読まれていますが、他の文字より摩滅が激しいのか、 元々字画がひどく崩れているのか、字形がはっきりしません。 ぱっとみの印象ではのようにも感じますが、そう当てはめてみると線と一致しません。 >>189

[195] 第2字は广であり、内側には元々何もなかったように見えます。 >>189

[196] 第3字はと読まれていますが、内側が横線のように見えていますし、 にしては横幅が狭く感じられます。ないしのように感じますが、 文脈的に無理があります。 >>189

[197] 第4字は草書系の字形として一応問題ないでしょうか。 >>189

[198] 残りは「正月七日」で問題ないと思われますが、の間が他よりも広めに空いています。 >>189

[199] 徳応四年の判読が通説化しているものの、必ずしも確定とは言えないように思われ、検討が必要です。

日時事例

東京都下の用例

日時事例

[79] >>29 は、板橋区で出土し、 發見者である中野区江古田の名士で郷土史研究者の堀野良之助の所蔵となりました >>251。 その後中野区に他の所蔵品と共に寄託されました。

[72] 第2字は摩滅して判然としませんが、大体であろうと推定、 あるいはかもしれない、とされます。 >>7

[76] 拓本を見ただけの印象では、第2字は摩滅というには字形が明瞭に見えますが、 それがどの文字を表しているのかよくわからない字形です。 とも違うように思われ、苦肉でと読まれた理由もわからないでもないのですが、 それも異なるように思われます。 >>74

[77] 月番号の部分が鮮明に見えるのですが、 次のの第1画の字画が長く伸びており、 両者のつながり方を見るとのように思われます。 ただ、の差分の下横線部分は不明瞭です。 >>74

[31] 他に貞和4年、 宝徳2年、 永正2年 >>28 / 永正5年 >>251板碑が混在して出土しました。 >>28, >>251

研究史

[73] の地域史は、 >>29 を紹介し、 判読を示し (>>72)、 私年号であって他にまったく類例のない異年号であり、 従って時代は判定できないものの、板橋区の地域である時代にこのような私年号を作って利用したことが知られる、 と説明しています。 >>7

[174] それを参照したの再調査では、 >>29 は所在不明とされています。 >>172 実際には中野区に現存しているのですが、 板橋区では誰もそのことを知る人がいなくなっていたようです。


[130] の書籍は、 私年号板碑の事例の1つとして >>29 を紹介しています。 足利時代の様式ながら年代不明としています。 >>620, >>619


[51] 昭和40年の久保常晴の論文は、次のように述べています。 >>27

[32] 昭和42年の 日本私年号の研究 は、次のように述べています。 >>28


[80] 中野区史料館の所蔵目録には、 >>29 をはじめ次の板碑が掲載されています。 >>5

[12] 他の3基の情報は出て来ないが今も中野区にある?

[88] 実正?はこれ以外に情報のない異年号です。

[13] 「実正?6年」は? 字形が似ており、 OCR の誤読例もままある。

[89] 「私年号板碑」も元号名すら不明です。

[84] 平成6年7月、 徳応元年() の板碑として文化財登録されました。 >>82


[151] の書籍は、 板碑私年号の事例の1つとして >>29 を紹介し、 室町時代か、としています。 >>14


[135] の史料集は、 >>29 を掲載しています。 >>408

[67] ただし重複があって後に訂正されています >>410

「野仏」(第一〇集) に徳応元年二基としたが、板橋区出土 現中野区文化センターの一基と訂正したい。

(第10集 =​ >>408)

[137] 資料によって翻刻が異なるために2基と誤認されたようです。 板碑資料ではこの種の問題が非常によく発生します。

[136] 昭和54年の追加分が >>65 を掲載しています。 >>410 に拓本も掲載されています。 >>411


[132] の報告書は、 >>65 を紹介し、 私年号文亀年間か、 としています。 >>6

[114] 一覧にはありませんが、 >>97 も紹介されており、私年号としています。 >>191

[203] の史料集は、 >>65 を紹介し、 私年号文亀としています。 >>202


[115] の書籍は、 次のように述べています。 >>251

[129] 日本私年号の研究と比定年を変更しておきながら、 日本私年号の研究の建元理由をそのまま引いているので、 矛盾が生じています。

[153] の書籍は、 板碑私年号の事例として次のように述べています。 >>17


[179] の書籍は、 次のように述べています。 >>178

[184] 本書は私年号の例示に福応を挙げていますが、 私年号の解説本文にありません。 >>178 /141 文脈からして徳応の誤りの可能性がある幽霊元号です。


[144] の書籍は、 >>101 を紹介して、 次のように述べています。 >>16


[211] 平成3年の史料集は、 >>99 を紹介し、 私年号で徳応2年は文亀2年としています。 >>210

[105] >>101 が文化財指定されました。 >>4

[94] の史料集は、 >>29 を紹介して、 私年号であり、現在の所干支からのいずれかだが未確定で、 「ここではとりあえず」文亀元年とされています。 >>90

[107] の地域史は、 >>65 を紹介し、 私年号としています。 >>11


[177] の地域史は、 >>29 を紹介し、 私年号干支年から嘉吉元年か文亀元年のいずれか確定できていないとしています。 >>175


[166] 付の Webページの解説は、 私年号にも公年号改元理由が援用できるとし、 徳応革命改元の事例と説明しています。 >>165

[167] 筆者の独自説なのか、このような説の解説書か何かが存在するのかは不明です。 私年号研究の世界では見かけない解釈です。

[165] 日本の私年号, , https://www5a.biglobe.ne.jp/~hampton/018.htm

改元はその理由により、大別すると4通りに分類される。 ①代替わり ②祥瑞 ③災異 ④革命の年(辛酉や甲子)

私年号使用の直接的理由は、公的年号と同様に上記①~④のいずれかに求められるが、④の例としては、1441年に東日本で用いられた徳応が挙げられる。この年の干支は革命の辛酉で、朝廷でも永享から嘉吉に改元されている。


[187] 国立歴史民俗博物館 東国板碑データベース は、 5件の徳応板碑を収録しています。 >>186


[171] の展覧会では、 >>29 が出展されました。

[140] その図録であるの書籍は、 >>29 を紹介すると共に、 >>101, >>65干支なき用例があることを紹介し、

... と説明しています。 >>390


[162] 一覧表の類には、 おおむね千々和到以後掲載されるようになったようです。 >>163

[164] 千々和到の系譜の表は初期は文亀元年か、としていましたが、 その後文亀元年か、とする説と嘉吉元年か、とする説の併記のものが出てきています。 >>163

[161] 日本語ウィキペディアの一覧表は、 初期から徳応を掲載し、 文亀元年から1年継続としています。 >>160 根拠は不明です。

関連

[185] 嘉吉物語徳応との関係は現在のところ知られていません。


[8] 新日本歴史 [第7] (天皇史), 新日本歴史学会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/2986852/1/108 (要登録)

堀河天皇 徳応元年 1086

[9] 応徳の誤植? 応徳元年 1084

メモ