[206] 拓本は文字が不明瞭です。
[207]
第1字は徳と読まれており、確かにそう読める字形ではありつつ、明確ではありません。
[209]
残りは目を凝らすと「
[193] 拓本によると、字形は比較的明瞭な部分が多いですが、よくわからない文字が多いです。
[194] 第1字は一応德と読まれていますが、他の文字より摩滅が激しいのか、
元々字画がひどく崩れているのか、字形がはっきりしません。
ぱっとみの印象では堀のようにも感じますが、そう当てはめてみると線と一致しません。
>>189
[195] 第2字は广であり、内側には元々何もなかったように見えます。
>>189
[196]
第3字は四と読まれていますが、内側が横線のように見えていますし、
四にしては横幅が狭く感じられます。日ないし白のように感じますが、
文脈的に無理があります。
>>189
[197]
第4字は年の草書系の字形として一応問題ないでしょうか。
>>189
[198]
残りは「正月七日」で問題ないと思われますが、七と日の間が他よりも広めに空いています。
>>189
[199] 徳応四年の判読が通説化しているものの、必ずしも確定とは言えないように思われ、検討が必要です。
逆正妙
辛
徳□元年[十]月 日
酉
修 禅尼 逆 正妙
辛
徳応元年十月 日
酉
修 禅尼 逆正妙
辛
徳応元年十月 日
酉
修禅尼[79] >>29 は、板橋区で出土し、 發見者である中野区江古田の名士で郷土史研究者の堀野良之助の所蔵となりました >>251。 その後中野区に他の所蔵品と共に寄託されました。
[72]
第2字は摩滅して判然としませんが、大体応であろうと推定、
あるいは慈かもしれない、とされます。 >>7
[76]
拓本を見ただけの印象では、第2字は摩滅というには字形が明瞭に見えますが、
それがどの文字を表しているのかよくわからない字形です。
応とも違うように思われ、苦肉で慈と読まれた理由もわからないでもないのですが、
それも異なるように思われます。
>>74
[77]
月番号は十の部分が鮮明に見えるのですが、
次の月の第1画の字画が長く伸びており、
両者のつながり方を見ると七のように思われます。
ただ、十と七の差分の下横線部分は不明瞭です。
>>74
[31] 他に貞和4年、 宝徳2年、 永正2年 >>28 / 永正5年 >>251 の板碑が混在して出土しました。 >>28, >>251
[73] の地域史は、 >>29 を紹介し、 判読を示し (>>72)、 私年号であって他にまったく類例のない異年号であり、 従って時代は判定できないものの、板橋区の地域である時代にこのような私年号を作って利用したことが知られる、 と説明しています。 >>7
[174] それを参照したの再調査では、 >>29 は所在不明とされています。 >>172 実際には中野区に現存しているのですが、 板橋区では誰もそのことを知る人がいなくなっていたようです。
[130] の書籍は、 私年号板碑の事例の1つとして >>29 を紹介しています。 足利時代の様式ながら年代不明としています。 >>620, >>619
[51] 昭和40年の久保常晴の論文は、次のように述べています。 >>27
[32] 昭和42年の 日本私年号の研究 は、次のように述べています。 >>28
[80] の中野区史料館の所蔵目録には、 >>29 をはじめ次の板碑が掲載されています。 >>5
[84] 平成6年7月、 徳応元年() の板碑として文化財登録されました。 >>82
[151] の書籍は、 板碑の私年号の事例の1つとして >>29 を紹介し、 室町時代か、としています。 >>14
[135] の史料集は、 >>29 を掲載しています。 >>408
[67] ただし重複があって後に訂正されています >>410。
「野仏」(第一〇集) に徳応元年二基としたが、板橋区出土
現中野区文化センターの一基と訂正したい。
(第10集 = >>408)
[137] 資料によって翻刻が異なるために2基と誤認されたようです。 板碑資料ではこの種の問題が非常によく発生します。
[136] 昭和54年の追加分が >>65 を掲載しています。 >>410 に拓本も掲載されています。 >>411
[132] の報告書は、 >>65 を紹介し、 私年号で文亀年間か、 としています。 >>6
[114] 一覧にはありませんが、 >>97 も紹介されており、私年号としています。 >>191
[203] の史料集は、 >>65 を紹介し、 私年号で文亀、としています。 >>202
[115] の書籍は、 次のように述べています。 >>251
[153] の書籍は、 板碑の私年号の事例として次のように述べています。 >>17
[179] の書籍は、 次のように述べています。 >>178
[184] 本書は私年号の例示に福応を挙げていますが、 私年号の解説本文にありません。 >>178 /141 文脈からして徳応の誤りの可能性がある幽霊元号です。
[144] の書籍は、 >>101 を紹介して、 次のように述べています。 >>16
[211] 平成3年の史料集は、 >>99 を紹介し、 私年号で徳応2年は文亀2年としています。 >>210
[105] 、 >>101 が文化財指定されました。 >>4
[94]
の史料集は、
>>29
を紹介して、
私年号であり、現在の所干支からかのいずれかだが未確定で、
「
[107] の地域史は、 >>65 を紹介し、 の私年号としています。 >>11
[177] の地域史は、 >>29 を紹介し、 私年号で干支年から嘉吉元年か文亀元年のいずれか確定できていないとしています。 >>175
[166] 付の Webページの解説は、 私年号にも公年号の改元理由が援用できるとし、 徳応を革命改元の事例と説明しています。 >>165
[167] 筆者の独自説なのか、このような説の解説書か何かが存在するのかは不明です。 私年号研究の世界では見かけない解釈です。
改元はその理由により、大別すると4通りに分類される。 ①代替わり ②祥瑞 ③災異 ④革命の年(辛酉や甲子)
私年号使用の直接的理由は、公的年号と同様に上記①~④のいずれかに求められるが、④の例としては、1441年に東日本で用いられた徳応が挙げられる。この年の干支は革命の辛酉で、朝廷でも永享から嘉吉に改元されている。
[187] の国立歴史民俗博物館 東国板碑データベース は、 5件の徳応銘板碑を収録しています。 >>186
[140] その図録であるの書籍は、 >>29 を紹介すると共に、 >>101, >>65 に干支なき用例があることを紹介し、
... と説明しています。 >>390
[162] 一覧表の類には、 おおむね千々和到以後掲載されるようになったようです。 >>163
[164] 千々和到の系譜の表は初期は文亀元年か、としていましたが、 その後文亀元年か、とする説と嘉吉元年か、とする説の併記のものが出てきています。 >>163
[161] 日本語版ウィキペディアの一覧表は、 初期から徳応を掲載し、 文亀元年から1年継続としています。 >>160 根拠は不明です。
私年号 異説 元年相当公年号(西暦) 継続年数 典拠・備考 徳応 - 文亀元年(1501年) 1 東京都中野区立文化センター蔵板碑など
[185] 嘉吉物語の徳応との関係は現在のところ知られていません。
[8] 新日本歴史 [第7] (天皇史), 新日本歴史学会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/2986852/1/108 (要登録)
堀河天皇 徳応元年 1086
[9] 応徳の誤植? 応徳元年 1084