天平聖曆

天平

[1] 天平 (y~1052) は、日本の元号の1つです。

遡及年号

他の時代も含む一般的事項は遡及年号

養老時代の類似例は養老の延長年号

[2] 鎌倉、まぼろしの風景。85, 更新日 : 4月26日2012, http://kamekokishi.web.fc2.com/stella/yakamochi.html

この部分は万葉集を読む人たちが皆気にする不思議な部分 でもある。

右は、養老8年7月7日、令に応ふ。

と書いてあるのだ。養老8年は2月に神亀へ改元されたので 養老8年7月7日は存在しないのだ。

さらに

右は、天平元年7月7日の夜、憶良、天河を仰ぎ観て作れり。

これも、8月になって天平に改元されたのだから、元年の7月 は存在しないのだ。

天平18年閏7月問題

[8] 万葉集 巻十七所収の 3927番の歌の題詞に、 「大伴宿祢家持以天平十八年閏七月被任越中國守、 即取七月赴任所、」 とありました >>9。 ところが天平18年閏7月旧暦になく、実際には閏9月がありました。 >>36 p.四一六

[10] そうでなくても閏7月に任命され7月に赴任できるはずがなく、 しかも続日本紀大伴家持越中守に任じられたのは天平18年6月壬寅としていました。 >>36 p.四一六

[3] この部分は写本間にも相違があり、 書写により誤りが発生したとみて 10種類以上の解釈が提案されてきました >>4

[5] なお、他に万葉集天平時代で 「天平十年戊寅秋八月二十日」 の「二十」が温故堂本で「七」と誤った例が知られています。 >>4

1年ずれ

[14] Wikipedia聖武天皇記事の表は西暦730年元年としていて、 1年ずれています。 >>13 天平の記事はずれていないようです。

天平聖曆

[1918] 天平天平聖暦天平聖歴天平正暦聖暦と書くことがありました。 聖暦

天平革

天平十七年八月, 天平十二年八月日

古代年号

[12] 神武天皇時代の元号天平があったとする説があります。 古代年号の一種といえます。

[1923] 奈良時代天平とは異なります。

[1920] 太平記 に、 「されば天照太神より以来、継体の君九十六代、其間に朝敵と成て滅し者を数ふれば、神日本磐余予彦天皇御宇天平四年に紀伊国名草郡に二丈余の蜘蛛あり。 」 とありました >>1922

[1917] 江戸時代伴信友は、 太平記 に、 「神日本磐余彦天皇御宇天平四年云々」 とあり、 参考本にみえる諸本、 自身が見た古写本2種、 いずれにもそうあるとしました。 >>1731

[1919] 伴信友は、 あまりに甚しき妄説なのに著者がどうして採ったものかと呆れました。 >>1731

[19] 昭和時代には、 遡って偽造されたもの (今で言う古代年号のこと)偽年号という、 しかし太平記神武天皇天平はあまりにバカバカしいので偽年号にも入れられていない、 と説明されていたりします。 >>6

[20] 実際各種私年号古代年号の一覧表にはなぜか天平が挙げられていません。 伴信友の著作も参照しているはずの日本私年号の研究にもありません。 その理由はよくわかりません。

[21] 馬鹿馬鹿しいというのは他の古代年号の多くにも言えることで、 ただの収録漏れのような気がしますが。

[1921] 天下を平定してから4年、というような意味なのでしょうか。

[7] 「聖武天皇御宇天平四年」が「神武天皇御宇天平四年」のように変化したものかもしれません。

[11] 多野藤岡地方誌 各説編, 多野藤岡地方誌編集委員会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9641326/1/122 (要登録)

「祭神は磐余彦尊 (神武天皇)。天平五年勧請と伝える。」

このタイプの由緒が誤読されて神武天皇天平五年が爆誕した可能性も?

[22] 元年がいつなのかわかりませんが、神武天皇の時代であることは間違いないので、 世界最古の時代を表す元号です。

メモ

[17] 日本国奈良県奈良市頭塔の方柱碑に 「自天年十八丙戌至寛保三癸亥一千歳建吊之也」 とあったとされます >>16 p.277 が、 他の資料では 「天十八丙戌」 となっています >>18。 誤植でしょうか。 あるいは現物の字形が異体字に近いのでしょうか。