[8] 万葉集 巻十七所収の 3927番の歌の題詞に、 「大伴宿祢家持以天平十八年閏七月被任越中國守、 即取七月赴任所、」 とありました >>9。 ところが天平18年閏7月は旧暦になく、実際には閏9月がありました。 >>36 p.四一六
[10] そうでなくても閏7月に任命され7月に赴任できるはずがなく、 しかも続日本紀は大伴家持が越中守に任じられたのは天平18年6月壬寅としていました。 >>36 p.四一六
[3] この部分は写本間にも相違があり、 書写により誤りが発生したとみて 10種類以上の解釈が提案されてきました >>4。
[5] なお、他に万葉集天平時代で 「天平十年戊寅秋八月二十日」 の「二十」が温故堂本で「七」と誤った例が知られています。 >>4
[14] Wikipedia の聖武天皇記事の表は西暦730年を元年としていて、 1年ずれています。 >>13 天平の記事はずれていないようです。
[12] 神武天皇時代の元号に天平があったとする説があります。 古代年号の一種といえます。
[1920] 太平記 に、 「されば天照太神より以来、継体の君九十六代、其間に朝敵と成て滅し者を数ふれば、神日本磐余予彦天皇御宇天平四年に紀伊国名草郡に二丈余の蜘蛛あり。 」 とありました >>1922。
[1917]
江戸時代の伴信友は、
太平記
に、
「神日本磐
[1919] 伴信友は、 あまりに甚しき妄説なのに著者がどうして採ったものかと呆れました。 >>1731
[19] 昭和時代には、 遡って偽造されたもの (今で言う古代年号のこと) を偽年号という、 しかし太平記の神武天皇の天平はあまりにバカバカしいので偽年号にも入れられていない、 と説明されていたりします。 >>6
[20] 実際各種私年号・古代年号の一覧表にはなぜか天平が挙げられていません。 伴信友の著作も参照しているはずの日本私年号の研究にもありません。 その理由はよくわかりません。
[1921] 天下を平定してから4年、というような意味なのでしょうか。
[7] 「聖武天皇御宇天平四年」が「神武天皇御宇天平四年」のように変化したものかもしれません。
[11] 多野藤岡地方誌 各説編, 多野藤岡地方誌編集委員会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9641326/1/122 (要登録)
「祭神は磐余彦尊 (神武天皇)。天平五年勧請と伝える。」
このタイプの由緒が誤読されて神武天皇天平五年が爆誕した可能性も?
[17] 日本国奈良県奈良市の頭塔の方柱碑に 「自天年十八丙戌至寛保三癸亥一千歳建吊之也」 とあったとされます >>16 p.277 が、 他の資料では 「天平十八丙戌」 となっています >>18。 誤植でしょうか。 あるいは現物の字形が年の異体字に近いのでしょうか。