[430] 掌中歴, 懐中歴は 二中歴のもとになったとされる書籍です。
【写】宮書,九大(嘉永元写),東大(文政一三村上敬応写),神宮(二部),尊経(残欠、一冊),大東急(上巻、文政一二写),無窮神習(王代記等と合),陽明(元禄三近衛基煕写),幸田成友【複】〔活〕続群書類従三二輯上
【写】国会(七冊)(六冊),内閣(明治写一三巻一四冊)(三冊本二部),宮書(明治写四冊),東博(七冊),東大(明治写八冊)(四冊),東北大狩野(一冊),島原(二巻二冊),叡山(四冊),塩釜(二冊),彰考(四冊),鈴鹿(二冊),尊経(鎌倉末期写一三帖、重文)(巻七‐一三欠、元禄一四写七冊),天理(巻二‐六、室町末期写五冊),無窮神習(一四巻三冊)(「二中暦鈔出」、速水房常写一冊)(巻七‐九、一冊),陽明(六巻五冊),水谷川家(一五冊)【複】〔活〕改定史籍集覧二三〔複〕尊経閣叢刊
[213] 二中歴の成立過程は多くの研究者が言及していますが、 不明なことが多いです。
[63] >>62 は大正7年で、二中歴の来歴を説明した早い例です。
[74] 昭和13年の >>73 は >>62 を引きつつも尊経閣文庫の複製本の部分写真を掲載しています。
[20] 古往来についての研究 : 上世・中世における初等教科書の発達, 石川謙, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9524887/1/155 (要登録)
[431] 昭和11年の 本朝書籍目録考証 は 本朝書籍目録 に注釈を加えたものです。 >>43
[275] 尊経閣文庫本の複製本に解説があります。昭和12年5月付で育徳財団名義となっています。 >>11
[78] >>77 昭和13年。尊経閣文庫本を実見しているとのこと。 編者不明、現存本は後醍醐天皇時代の写本とする。 掌中歴4巻と懐中歴10巻を合流させたことによる書名とする。 崇徳天皇大治3年の成立と考えるが、順徳天皇時代説もあって一理あるとする。
[838] 整理するとこんなところか:
[850] 「二中歴にあるから平安時代に遡れる」という主張は眉唾物で、 個別ケースごとに検証が必要。
[851] 安全を取るなら南北朝時代までに、となる (古写本の追記でない部分に該当するなら)。 上限が院政期、下限が南北朝時代初期で、これをどれだけ狭められるかはケースバイケース。
[26] >>23 >>24 に橋本義彦の解説『二中歴』(附)『掌中歴』。 >>24 には他に前田綱紀の『二中歴』考閲
[29] https://doshisha.repo.nii.ac.jp/record/15825/files/007000470025.pdf
[16] 国文学研究資料館紀要 (21), 国文学研究資料館, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/4419884/1/55 (要登録)
[27] 二中歴は 「「掌中歴(しょうちゅうれき)」と「懐中歴(かいちゅうれき)」の内容をあわせて編集したもの」 >>1 とするのが定説になっているが、何を根拠としているのかよくわからない。 本文にはそんなことは書かれていないし、 掌中歴は一部現存するものと比較したのだろうが、 懐中歴は現存していない。 >>11 もこのことは前提としていて説明がない。
[36] >>34 >>35 は二中歴の制作過程を詳しく検討しているが、 掌中歴と懐中歴が主材料という点はやはり前提としていて、 二中歴の限られた注釈のほかは現存する掌中歴しか論拠がないところが危うく感じられる。
[777] >>27 については >>397 >>648 で詳しく検討されていて、その検討内容は妥当と考えられるので、定説通りでよいかと。
[37] >>35 /229 の京兆歴の「私云」の件は興味深い。 「私云」に続く文は掌中歴にあるという。「私」とは誰のことか。 >>35 は二中歴編者だとし、それ以後の書写者だとする説を否定する。 しかし掌中歴を原素材とした二中歴編者が「私云」として引くのはおかしくないか。 原素材とされた掌中歴異本には既に「私云」と書かれていたのだろうか。 (>>35 /139 も参照されたい)
[48] >>9 /33, >>13 /12 の藤氏長者条、 藤原緒嗣から始まる元のリストの後に藤原鎌足から始まる 「或本掌中歴」 からのリストを補っているのが何だか意味深よね。
[84] 女院歴の「二中」は二中歴のことなのか、それとも掌中歴と懐中歴の2つの「中」のことなのか。
[85] 掌中歴と懐中歴の注釈は一様に付いているわけではなく巻3の途中から出現し始める。 正確に言えば巻1の冒頭からいきなり掌中歴は構成が違うと注釈があるが、 その後巻1と巻2にはまったく出てこない。
[86] これはどういうことなのか。掌中歴と懐中歴は途中までほぼ同じで途中から内容が変わり始めるのか。 それとも注釈がなくてもどちらか由来のものをそのまま取っていたり、 混ぜていたりするのか。
[779] >>648 は「今案」「説云」から掌中歴を土台にしたと推定している。
[780] >>648 は年代歴について、 大宝以前の年号を掌中歴に載せていないので 懐中歴 に基づくと認められる、としている。
[781] しかしこの検討で十分だろうか? 年代歴は大宝前後で2部に分かれていて、 後半は掌中歴とよく似ている。
[782] もしそうだとすると異同が明記されていないからといって懐中歴由来とは断言できないことに。 むしろ全巻通して細かく異同を明記する態度が見られるのにここでは何の記載もないことは不審に思うべきかもしれない。
[783] >>728 のように年代歴は他よりも変更が加わりやすい性質がある。
[87] 二中歴の名前の由来はよく説明されるのに掌中歴と懐中歴の名前は全然議論されていないのはなぜか。
[88] そのまま解釈すれば掌中は掌の中、懐中は懐・ポケットの中の意味で使われる語なのだから、 今で言えばハンドブックとか必携とかいうようなものか。
[89] 掌中歴自序は口遊に触発されたと書いているが、 題名のスタイルがずいぶんと違うように感じる。 掌中歴が確立した新しいスタイルなのか、それとも「○中歴」「○中抄」 ブームに乗っかったのか。
[90] 二中歴のもとになったものだけでもこのシリーズの題名のものに 懐中抄, 函中抄, 簾中抄 があり、他にも袖中抄のようなものがあるが、 これらにはどういう関係があるのだろうか。 (更に時代が下るとこれら以外にも「○○懐中抄」のような書物がたくさん作られているようだ。)
[91] 二中歴はそのうち掌中歴と懐中歴を使ったということだが、 なぜこの2つが選ばれたのか。二中歴で使っている他の諸書はなぜ採られなかったのか。 他は「歴」ではないからなのか。
[92] 掌中歴と懐中歴によるところが大きいからなのか。 しかし掌中歴3巻と懐中歴10巻では分量の差が大きい。 懐中歴を掌中歴で増補・校合したとなりそうなものだが。 掌中歴は懐中歴と並び立つほど存在感の大きなものなのか。
[273] 懐中歴と掌中歴の両方が引用されている箇所もあるようなので両方で重複した内容はあったらしいが、 どの程度重複していたのか。 完全な包含関係ならわざわざ2書使わなそうだが。 二中歴には両者がすべて使われているのか、それとも一方だけ選んでいるところもあるのか。
[94] 掌中歴と懐中歴が重視されて編集されたとすると、 なぜ他の○中抄は掌中歴と懐中歴ほど重視されなかったのか。
[856] 日本天文研究会報文 4(4)(16), 日本天文研究会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/3204886/1/26?keyword=%E7%B5%90%E7%B8%84%E5%88%BB%E6%9C%A8 (要登録)
[857] >>856 二中歴は三善行康が書いたと言われている、らしい。誰によって言われているのか。
現代には尊経閣文庫本と呼ばれる、加賀・前田家に伝わる古写本が残されているのみで、これは鎌倉時代後期から室町時代にかけての、後醍醐天皇のころに作られたと考えられている。
尊経閣文庫本には順徳天皇の御代に編纂されたとあり、1210年~1221年頃の成立であると考えられている。
[18] >>1 この書き方は誤解を招くよなあ。尊経閣文庫本が最古かつ他の諸本がすべて尊経閣文庫本からの派生と推測されていて、 原本が現存せず他の系統の本が見当たらないというのが正確で、 現存唯一の本ということではない。
[46] >>11 >>34 >>35 を読むと室町時代後期 (戦国時代) に尊経閣文庫本からの写本が世に出回るようになったと書かれているので、 ずっと秘蔵されて知られていなかったというわけでもない。
[47] 現代の研究者にとっての重要度のわりに近代初期までの流布範囲や知名度が低すぎるというのは、まあその通りなんだけど。
尊経閣文庫本には順徳天皇の御代に編纂されたとあり、
この部分は虚偽。そんなことが書いてあれば研究者はみな苦労していない。 それとも尊経閣文庫が出版した解説のことを「尊経閣文庫本」と呼んでいる? そんなアホな??
[8] ノート:二中歴 - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E4%BA%8C%E4%B8%AD%E6%AD%B4
増川宏一『将棋の起源』(ISBN 4-582-76172-0) P.43 より、加賀前田家に伝わっている写本より、順徳天皇の御代(1210~1221年)に編纂されたと言えるそうです。--Tamago915 2006年3月5日 (日) 12:22 (UTC)
[40] 三善為康 - Wikipedia () https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%96%84%E7%82%BA%E5%BA%B7
官歴には恵まれなかったが、博識で晩年まで様々な著作を著した。『朝野群載』(28巻)、『懐中歴』(10巻)、『掌中歴』(4巻)などが代表的なものである。『懐中歴』『掌中歴』は散逸したが、鎌倉時代に両書を元にして編纂された『二中歴』が残されている。また児童向として『続千字文』『童蒙頌韻』などの啓蒙書を執筆、更に本職である数学書『三元九紫法』を著したがこちらは散逸した。
[269] 懐中歴、掌中歴とも著書ということに断定されていて何の注釈もない。
大治4年(1129年)81歳にして正五位下に叙せられる。また、同年には暦道家が8月に閏月を置くのは良くないとして退閏(改暦)を唱えた際には、宿曜道の隆算と共に暦道家の主張に根拠がないことを唱えた。
という事績も。 >>39 これは二中歴に日計歴や閏月歴があることを思うと興味深い。
[271] ただし本朝書籍目録が三善為康の「抄」としていることはやっぱり無視しない方がいいのではとも。
[426] 同一著者だとしたら、なぜ同じ人が2つも似たようなものを作らなければならなかったのか、 には納得できる説明がほしい。
[427] 前田家の新旧写本は冒頭部分が内容は同じなのに字詰違いで体裁は一致していないと。 続く部分は一致しているのに。なぜそんなことが起きるのか。
[428] 途中で何か事情があってやり方を変えたのか。それとも同系統の別の写本が1セットになっているのか。
[211] 堀河天皇の時代というと思い起こされるのが扶桑略記。 しかし扶桑略記には人代歴のような経過年数表示はありませんし、 扶桑略記の末年とは一致していません。 では共通のネタ本のようなものが、と考えてみるのですが、 両者の共通性は見つかりません。 扶桑略記の成立過程については平田俊春の研究がありますが、 二中歴との共通の祖本のようなものが差し挟まりそうな余地はなさそうにも思われます。 同じ堀河天皇の時代というのが偶然にしてはよく出来すぎているように思われるのですが、 それだけではちょっと弱いですね。
[15] https://www.jstage.jst.go.jp/article/chusei/48/0/48_48_16/_pdf/-char/ja#page=4
[96] 懐中歴は二中歴が作られた頃には異本がいくつか得られる程度に使われていたらしいが、 いつしか失われた。いつまで存在していたのか研究したものは見当たらない。 中世以後現代まで、二中歴の原資料として以外での言及はほとんどない。
[97] 掌中歴は二中歴が作られた頃には異本がいくつか得られる程度に使われていたらしいが、 多くはいつしか失われ、今はごく一部分が残るのみである。 二中歴にない独自の記述があるため、 二中歴編纂後にも加筆されながら伝写されたことがわかる。 (なお現存本が二中歴編纂に使われた本とどのような関係なのかはまだ検討の余地がありそう。) 完本がいつまで存在していたのか研究したものは見当たらない。 現存本は近世以来研究者に参照されているが、二中歴の原資料としての言及を除けばそれほどよく参照されているわけではない。 群書類従に収録されており近世にはそこそこ知られていたとは思われるが、 現存部分の収録内容がさほど興味を引かれるものではなかったか。
[98] 二中歴がいつどのように作られ、どのように使われたかはほとんど不明だが、 中世後期頃まで追記されながら公家で細々と使われていたのは確か。 中世後期に世に出たが当時の知名度は皆無だったようで、 その後広まったもののほとんど研究者に参照されることなく近代を迎える。 明治時代中頃から少しずつ研究者に使われるようになり、 「掌中歴と懐中歴を合わせて二中歴」 の通説が昭和時代の初め頃までに成立した。
[60] 伴信友全集 第2, 国書刊行会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/991313/1/77 右下
[54] 群書類従 第四輯, 塙保己一, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1879724/1/20
[55] >>54 本朝皇胤紹運録頭注の4箇所で二中歴を引いている。
[57] 栗里先生雑著 : 一五巻 下, 栗田寛, 栗田勤, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1087995/1/213
[58] >>57 明治17年逸年号考で二中歴を引いている。
[56] 日本書紀通釈 上篇之1,2, 飯田武郷, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/772295/1/42 右
二中歴を引いている。
[272] 掌中歴自序は口遊が必要なことの, しか書かれていないと述べている。
[19] 本朝書籍目録考証, 和田英松, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1117041/1/318
[21] 日本地図史, 秋岡武次郎, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/3022553/1/60 (要登録)
[22] 古事類苑 歳時部2, 神宮司庁古事類苑出版事務所, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/897572/1/96
[28] 二中歴(ニチュウレキ)とは? 意味や使い方 - コトバンク, デジタル大辞泉,精選版 日本国語大辞典,改訂新版 世界大百科事典,日本大百科全書(ニッポニカ),世界大百科事典内言及, https://kotobank.jp/word/%E4%BA%8C%E4%B8%AD%E6%AD%B4-592098
[31] DO00360R155.pdf, , https://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/DO/0036/DO00360R155.pdf#page=6
[33] 173-174.pdf, , http://www.wasan.jp/sugakusipdf/173-174.pdf#page=5
[59] 史籍集覧 (>>13) 旧版と新加のうちの新加の方に二中歴。
[75] 日本地理学史, 藤田元春, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1213166/1/53 (要登録)
[76] >>75 二中歴所収の懐中歴奥付が付された日本地図。これと同系統のものが明の時代の大陸にも流布していた、と。 なお海東諸国紀の日本地図は別系統。