[6]
[7] 異年号考 によると、 この寶塔は穂積保の所蔵でした。 >>23
[8] その後の所在は不明です。
[9] 寶塔の中には銅像が1つありました。仏像ではなく、 何の像か穂積保にはわかりませんでしたが、 房總志料 掲載の上総国夷灊郡山田村の時雨臺で発掘された銅像で惠美子の像であると断定されるものに、 似ているのだといいます。 >>23
[4]
江戸時代の研究者穂積保の
異年号考
(序)
[5]
それによると、
信濃国岩村田での出土です。
出土の経緯は不明ですが、
穂積保は岩村田の研究者吉澤好道と親交があり、
私年号に関する情報交換を行っていましたから、
そのルートと思われます。
[11] 異年号考は、この元号は不明で、 銅に彫られているので脱字があるとも思われないとしつつも、
寛が上にある元号で7年まで続くのは、
寛平、寛弘、寛治、寛正、寛永、寛文寛が下にある元号で7年まで続くのはないとし、寛正七年丙戌のときだろうか、不明である、としています。 >>23
[17]
江戸時代の研究者伴信友の逸号年表補考は、
作は作ったという意味で元号名の一部ではないとし、
寛の後に1字が欠けているのだろうとしています。
>>16
[22]
明治時代の研究者栗田寛の逸年号考
(稿)
[29] 明治41年の国史大辞典は、 私年号の1つとして寛を掲載し、 寛正の略か、として寛正元年に比定しています。 >>30
[31] その後も近代のいくつかの辞典類には掲載されるものの、 掲載されないものが増えていきます。 >>30
[32] 理由が明確に語られることはありませんが、 公年号の省略形に過ぎないと判断されたのか、 私年号研究の場では取り扱われないようになっていきました。
[35] 時系列 :
[33] 三十番神信仰の盛んな時期ということも寛正説には有利なのでしょうが、 それにしてもヒントが少なすぎで、根拠が不安定に思われます。
[34] 実物が行方不明なので、様式論からの編年が困難なのも問題。
[45] 寛正7年6月とすると4ヶ月の延長年号になるのも、悩ましいポイントです。 この時代ならないとも言い切れず。
[27] 野村宗貞と楯無堰 : 楯無堰開削者野村宗貞の復権, 浅原勝芳, 楯無堰土地改良区 共著, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/11993634/1/33?keyword=%E5%AF%9B%E4%B8%83%E5%B9%B4 (要登録)