[16] 承得、豕得、豕徳は、日本の公年号の1つ承徳の異表記です。
[136] 同時代用例の可能性が高いものが3点報告されており、その他にも若干の用例が見られます。
[17] この像は、 昭和31年 >>58 に解体調査され、 銘文が知られました。 >>11 銘文の存在自体は既に知られていたとされます >>11 が、調査を行った亀田孜によると 二郡見聞私記 の記述による >>58 ようです。
[18] 銘文は、享保5年の修理についての漢字銘文と、 真言の音訳漢字の銘文とがあります。 >>11
[21] 像の本体や真言銘文の様式は、承徳時代頃のものとされます。 >>11, >>45, >>47
[14] 真言銘文は、に司東真雄がそれまで紹介されてこなかった、 として全文を掲載しています。 >>8 一部は司東真雄自身が前年の論文で触れており、 判読に関して注意を要した点もそちらに記載があります。 >>11
[15]
実見している司東真雄の論文や地元文化財行政の報告書などでも、
「豕徳」
「豕得」
「承得」
と表記が揺れていますが、事情の説明がなく理由は不明です。
豕/承は原字形に近づけたものかもしれませんが、
得/徳はどうしたものでしょう。
[22] >>33 は白黒かつ印刷上やや字形が正確に読み取りづらいものの、 およその雰囲気はよく見えます。
[36] それによると、銘文は全体として比較的崩れていない楷書で書かれています。
[38] 2字目は明らかに得です。寸の部分が少々現行の標準字形と異なりますが、
筆記では普通にあり得る程度の変形です。
[37] 1字目は、ちょうど素材の色の違いなのか影になっているのか分かりづらい部分に重なりはっきりしませんが、
概形としては豕のようになっています。ただし、左のノ字型の点画群の部分が不明瞭です。
[174]
>>165 の
[175] 胎内銘の確認は容易ではないので、著者の実見とも思われません。 消去法で >>170 掲載のものからの転載ではないかと推測されます。
[176] >>174 では、1字目は豕に近い字形ですが、内側のノは2本でなく1本に見えます。
[203]
江戸時代後期の記録は、永か承か定かならず、
としつつ、銘文は永得と表記しながら、承得2年から天明8年までの年数を数えています。
>>200
1 承徳3年4月6日 件、依為後日渡進以解、 承得(徳)三年四月六日 橘 未収 337 徴古雑抄(厳島神社文書) 4/0
[142] 油山は寺院もある地です。大正の頃から多くの経筒が発見されたといい、 そのうちの一部は現所蔵者宅へと持ち込まれました。 >>139
[89] に重要文化財指定され、 福岡県福岡市中央区舞鶴で所蔵されています。 >>85
[90] 銘文は >>88 で比較的細部までよく読み取れます。 印刷の加減のためか部分的に字形が読み取りづらいところもありますが、 全体的に字画が明瞭です。おおむね点画のはっきりした楷書ですが、 一部の字画がつながっているところもあります。
[91]
元号名の2字目は現在の標準字形とは少々異なるものの、得であることが明らかです。
[92]
元号名の1字目は、上部がやや不明確ですし、現在の標準字形とはかなり違うものの、
いろいろな字形で書かれる承の一種と考えても差し支えないように見えます。
三 「中右記 自永長元年至承得元年 十四―十九」 7「中右記 十四永長元嘉保三年自正月至三月 十五永長元年夏 十六嘉保三年七八九月」(表紙に小池・広池・中村校、とアリ)(十六の奥書「一校、/右嘉保三年秋一冊、以九条道孝蔵本謄写、五等掌記樹下茂国校、/明治十六年九月廿日、八等掌記名倉信敦再校、」) 8「中右記 嘉保三年十月十一月十二月 十七」(表紙に千住訓点、とアリ)(奥書「一校了/右嘉保三年冬一冊、以九条道孝蔵本謄写、明治十六年九月廿日、八等掌記名倉信敦校、」) 9「中右記 十八承得元年一二三月 十九同年四五六七八九十十一十二月」(表紙に下村・千住校、とアリ)(十八の本奥書「宝治三年正月抄出了(花押影)」、十八の奥書「一校了、右承徳元年春一冊、以九条道孝蔵本謄写、五等掌記樹下茂国校、」、十九の四五月末の本奥書「宝治三年正月卅日夜、於灯下少々抄出了(花押影)」、十九の本奥書「宝治三年正月抄出了(花押影)」、十九の奥書「一校畢/右承徳元年四月五月秋冬一冊、以九条道孝蔵本謄写、明治十六年九月廿六日八等掌記名倉信敦校」) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 四 「中右記 自承徳二年至康和四年 十―二十五」 10「中右記 二十承徳二年自正月至八月 二十一同年冬」(表紙に中村・雛田校、とアリ)(三月の本奥書「承徳二年春、宝治三年二月一日抄出了(花押影)」、三月の奥書「一校畢、」、二十の奥書「右承徳二年春夏七八月一冊、以九条道孝蔵本謄写、明治十六年九月十九日八等掌記名倉信敦校」、二十一の本奥書「宝治三年二月一日抄出了、一校了、」)
[138] 活字本で現在知られているのは1例のみです。一般に、誤植しがちな漢字だと似た用例が大量に出て来がちなのと比べると、 近現代にはさほど間違われないようです。
[81] >>4 の元号名1字目 (>>37) が何であるかは必ずしも自明ではなく、 検証を要すると考えられます。
[82] しかるに、昭和時代に再発見した現地の研究者らの論文は表記が安定せず、
十分な検討を経ずに承と同定しています。その後の研究者らは無批判に承を所与の前提としています。
[83]
本来なら実物や精細な写真に基づいて検討するべきですが、 Web 上で見られるものによれば、
楷書の豕に近い、しかし厳密には異なりそうな字形をしています (>>37)。
承がこうした字形になることはあり得そうですが、
類例を求めて実証することが望ましいと考えられます。
[84]
楷書でなく崩し字であれば、承が
(豕そのものは見つけられませんが、)
崩し字の豚の旁と酷似する事例があるようです。
従って草書を経由した字形が使われていたとも考えられます。
あるいはもっと単純に、似たような字形なら何でも良いという感覚だったとも考えられます。
[93]
>>53 の元号名1字目 (>>92) も、承と考えて問題無さそうではありますが、
念のため類例を探して確信を得ておきたいところです。
[94] 銘文の表記の確定はその後のすべての検討の大前提になるのですから、 こうした作業が疎かにされ、明朝体の字形しか見ないで話が進められるようにも思われる現状は問題です。
[189] ほとんど全ての研究や言及は、承得が承徳であるとの立場を取っており、 江戸時代から現在に至るまでの通説といえます。 しかも、その大部分がこれをほとんど自明の事実、 あるいは先行研究で証明された解決済みの問題のように扱っていて、 まったく疑問を挟んでいません。
[188] 現在までに少なくても3点の同時代用例の可能性が高い用例が知られていますが、 従来のほとんどの研究がこれらを独立に扱っています。わずかに >>163 と >>56 (偶然にもどちらも昭和42年) が3点中2点を検討しているに過ぎず、 その両者も >>4 の検討に >>53 を付け足したような不均衡感が否めません。
[190] >>4 については様式と時代が合うことをいくつかの論文が明記していますが、 >>53 や >>132 については不明のままです (少なくても元号の解釈と関係する形では論じられておらず、 銘文日付と独立して編年的な評価が成された明確な記録が見当たりません)。
[191] 一応この通説で大きな矛盾は生じていないようで、他に代替となる説もなく、 検討しても通説の訂正が必要になる可能性は高くありませんが、 論理の脆弱な結論だけが独り歩きしている現状は健全ではありません。
[192] いくつかの文献は承得を承徳の誤りだとしています。しかし、 誤りだとする明確な根拠を示しているものは見当たりません。
[193] 久保常晴の日本私年号の研究は、 承得などを公年号の変形である同音異字年号に分類し、 私年号でない異年号としています。 承得に着目した議論ではなく全体に対してですが、 公年号の軽視から表記の揺れが生じ、 やがて私年号が生まれる土壌となったと論じていますが、 この論理の中で承得はその最初期の事例の1つに当たります。
[194]
こうした議論のためには、徳が得と表記されることが、
当時の表記慣習においてどう位置付けられるのかをまず確認しておく必要があります。
一般の文章でこうした異表記があり得るのか、あるとしたらどういう文脈で、
どのような意図がある (又は無い) のか、一般の文章と元号名ではそれに違いは観察できるか、
といった検証が不可欠なのです。それは決して容易ではなく、推測を大いに含むことになるでしょうが、
それでも欠けていては >>192 や >>193 のような議論は意味をなしません。しかし、
(承得以外でも) ほとんど行われていないのが現状です。
[195]
一般論としていえば、現在と異なる前近代の表記体系では、こうした同音の漢字の利用はありふれており、
徳と得は字形の雰囲気も類似していますから、交換は大いにあり得そうなものです。
あたかも常識のように承得を承徳の同義語と処理した研究者達も、
そうした前近代文章読解の「常識」に依拠している可能性が高いと考えられます。
[19] 享保5(1720)年3月15日開眼、 住職了然房宥覚と記載のある漢字銘 (>>18) には、 当像が六百余年を経て破損した旨の記載があります。 この記述から、 了然房宥覚が藤原時代の元号だと解釈したことが知られます。 >>11
[59] 文政頃 >>60 ないし天明頃 >>58 の成立かと言われる和田甚五兵衛氏武の 二郡見聞私記 >>58 に、
歳月の記あり、 承得二年十二月十日坂上長此下の字見得す永の字か承の字か定かならず、 承得二年より天明八年まで七百五年に成、
[61] >>60, >>58 とも括弧書きで德を併記していますが、校訂者の注釈でしょうか。
[62] 和田氏武は、 の705年前が承得2年としており、 天明8年頃にこの部分を書いたと思われます。 1788 - 705 は 1083 で、
頃になります。
は 1788 - 1098 = 690 で、15年という中途半端なずれがあり、誤算とも考えにくく、 承德を想定していたのかは定かでありません。
[204]
大正8年の地誌は、
>>7
を紹介して、
「
[108]
の橋詰武生の書籍は、
德を論じ、「德は得なり」と題して語っている部分において、
經筒を考古学的に調査した自身の経験を述べています。
>>53
に明らかに「承得三年」云々の銘文を実見したとし、
これは日本での1混用例であり、
承得は承德であることは「
[20]
、
日本国岩手県の歴史研究者司東真雄は、
承得について、徳の音仮借字の得を使った元号名と解釈しました。
>>11
[24] 、 司東真雄は、 銘文を承得とする一方本文では豕得とし、 豕得は承徳で、音假借であり行假借だとしました。 >>8
[43] 、 司東真雄は、 音仮借年号の1例として豕得は承得だとしました。 >>42
[25] 、 司東真雄は、 音仮借年号の1例として豕徳は承徳だとしました。 >>2
[26]
音仮借/行仮借は司東真雄がよく用いていた概念です。
[67]
の横川融三の論文は、
>>59
を紹介した上で、
「
[56] の論文は、 >>4 を紹介し、承得は様式から承徳であることが容易に想像され、 >>53 も承徳を承得と書いていると指摘しています。 >>47
[57] なお当論文は銘文写真も掲載していますが、字形の判読の検討は行っていません。
[34] の自治体報告書は、 >>4 の銘文を豕得と翻刻しつつ、 本文では承徳と引用し (月も10月と誤り)、 承得は承徳の借字と説明しています。 >>31
[144]
の論文は、
>>53
を紹介し、
「
[106]
の論文は、
>>53
を紹介し、
「
[147]
の論文は、
>>53
を紹介し、
「
[121]
の書籍は、
>>53
を紹介し、
「
粗放な文字で、埋経の
由来を書いたものがあり、承徳三 (一〇九九) 年の年号 がみえる。異体の文字も多いが、承徳の年号は承得とな っている。文筆になれない者の彫りとみられるが、
と述べています。 >>139 必ずしも明確ではないものの、文字に慣れていないので漢字を誤ったと読める書き方です。
[125]
の書籍は、
「
[116]
の目録は、
>>53
を紹介し、
「
[104]
の文化財資料集は、
>>53
を紹介し、
「承得三年」
はに「
[128]
の史料集は、
>>53
を「
[151]
の史料集は、
>>53
を
「
[102] の自治体文化財資料集は、 >>53 を紹介し、 「承得三年」 はと考えられるとしています。 また、延長年号であることを指摘しています。 >>85
[95]
の自治体文化財資料集は、
>>53
を紹介し、
「承得三年」
はの「
[111]
の史料集は、
>>53
の銘文を紹介し、
「
[114] の論文は、 >>53 の拓本と銘文を紹介し、 「承得 (徳) 3年銘」 としています。 >>112
[154]
の論文は、
>>53
に言及し、
「
[149]
の論文は、
>>53
を一覧表に掲載し、
「
[156] 付けで Webサイトに配置された論文 (発表日不明) は、 >>53 の銘文を紹介し、 承得三年はとしています。 また、延長年号であることを指摘しています。 >>155
[46]
の書籍は、
>>4 について
「
[76] , の年表は、 承徳二年条で >>4 の「承得二年」銘を紹介しています。 >>74, >>77
[73]
の書籍は、
>>4 について
「
[40]
の書籍は、
>>4 について
「
[80]
の自治体史は、
>>4 の「承得二年」銘を紹介し、
「
[28]
の書籍は、
>>4
について
「
[71]
の雑誌は、
>>4
について
「
[30]
の書籍は、
>>4
について
「
[158] の Webページは、 >>4 について 「承徳(承得)二年(1098)」 と紹介しています。 >>157
[162] のブログ記事は、 >>4 について 「承徳(承得)二年(1098)」 と紹介しています。 >>161
[44] その他、断り無く >>4 に「承徳二年」銘があるとするものがいくつかあります。
さらに、承徳(承得)二年(1098)に寄進したと記されていた伝阿弥陀如来立像(県指定文化財)や室町時代の作と思われる不動明王立像(町指定文化財)等がある。
さらに、承徳(承得)二年(1098)に寄進したと記されていた伝阿弥陀如来立像(県指定文化財)や室町時代の作と思われる不動明王立像(町指定文化財)等がある。
[163] 昭和42年の日本私年号の研究は、 異年号の一種同音異字年号に分類しています。 >>165
[177] 次のように述べています。
徳を得とするのは、
当時の人士の形而上的な徳よりも現実的な得、物質的な得を求める傾向と見うるだろう[187] 日本私年号の研究が異年号であっても私年号ではないと判定したためなのか、 あるいはそれ以前にほとんど私年号研究の分野で紹介されてこなかったためなのか、 日本私年号一覧表の類での掲載事例は、 どの時代の辞書類等にも確認できません。
[186] 史料編纂所の平安遺文データベースは >>132 について 「承得(徳)三年四月六日」 としています。 >>3