蒙古即位紀年

蒙古即位紀年

蒙古帝国の即位紀年


[37] 元史は、蒙古帝国皇帝の在位中を、 「元年丙寅」のように元年、二年、三年、... と元号名のない即位紀年干支年とで書いていました。 初代の即位前やその後の空位時代は 「歲壬戌」「壬寅年」 のように干支年で書いていました。 >>36

[40] 巻4のフビライハン紀では、即位年より前は干支年で書かれていました。 即位後は元号で書かれていました。 >>36

[38] 現代の解説でもこれに倣って即位紀年が使われることがあります。

[23] チンギス・カン - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%B3%E3%82%AE%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%B3

死去 太祖22年7月12日 (1227年8月25日)

[25] オゴデイ - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%82%B4%E3%83%87%E3%82%A4

死去 太宗13年11月8日 (1241年12月11日)

[27] グユク - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%83%A6%E3%82%AF

死去 定宗3年3月25日 (1248年4月20日)

[34] モンケ - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%82%B1

出生 太祖3年12月3日 (1209年1月10日)

死去 憲宗9年7月21日 (1259年8月11日)

[41] 成吉思汗 - 维基百科,自由的百科全书, , https://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%88%90%E5%90%89%E6%80%9D%E6%B1%97

逝世 成吉思汗二十二年丁亥豬年七月十二日(六十六歲) 1227年8月25日(65歲)

[42] 窝阔台 - 维基百科,自由的百科全书, , https://zh.wikipedia.org/wiki/%E7%AA%9D%E9%98%94%E5%8F%B0

登基 窩闊台汗元年己丑牛年八月二十四日 1229年9月13日

逝世 窩闊台汗十三年辛丑牛年十一月八日(五十七歲) 1241年12月11日(55歲)

[43] 贵由 - 维基百科,自由的百科全书, , https://zh.wikipedia.org/wiki/%E8%B4%B5%E7%94%B1

登基 貴由汗元年丙午馬年七月十二日 1246年8月24日

出生 成吉思汗元年丙寅虎年 1206年 漠北草原

逝世 貴由汗三年戊申猴年三月 (四十三歲) 1248年4月(42歲)

[44] 蒙哥 - 维基百科,自由的百科全书 ( 版) https://zh.wikipedia.org/wiki/%E8%92%99%E5%93%A5

元太祖三年十二月三日(1209年1月10日)

[9] 1257年 - Wikipedia ( 版) https://ja.wikipedia.org/wiki/1257%E5%B9%B4

11月4日(蒙哥7年9月4日) - 元好問、金の文人(* 1190年)

[48] 1259年 - Wikipedia ( 版) https://ja.wikipedia.org/wiki/1259%E5%B9%B4

中国周辺

モンゴル帝国* : 憲宗(モンケ)9年

朝鮮

高麗 : 高宗46年

[49] モンゴル帝国 - Wikipedia ( 版) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%82%B4%E3%83%AB%E5%B8%9D%E5%9B%BD

『元史』巻3・憲宗本紀 憲宗元年辛亥 夏六月条

[50] 8月11日 - Wikipedia ( 版) https://ja.wikipedia.org/wiki/8%E6%9C%8811%E6%97%A5

1259年(蒙哥9年7月27日) - モンケ、モンゴルのハーン(* 1209年)

[6] 朝元宪宗孛儿只斤蒙哥(附阿里不哥汗) ( 版) http://www.1-123.com/article/m/meng/mengge1/117509.html (消滅確認 )

朝元宪宗孛儿只斤蒙哥(附阿里不哥汗), , http://web.archive.org/web/20101007210223/http://1-123.com/Article/M/meng/mengge1/117509.html

出生:元太祖成吉思汗三年(1208)

卒年:元宪宗蒙哥汗九年(1259)

[7] 世界战争史上的奇迹之地钓鱼城,死蒙哥,抗蒙古30年!_汗青集萃 飞扬军事-中国军迷原创第一站 中国军迷原创第一站 - Powered by www.fyjs.cn! (Discuz! Team and Comsenz UI Team 著, 版) http://www.fyjs.cn/thread-1268568-1-1.html (消滅確認 )

世界战争史上的奇迹之地钓鱼城,死蒙哥,抗蒙古30年!_汗青集萃 飞扬军事-中国军迷原创第一站 中国军迷原创第一站 -, Discuz! Team and Comsenz UI Team, , http://web.archive.org/web/20150813175403/http://www.fyjs.cn/thread-1268568-1-1.html

南宋宝佑六年至开庆元年(蒙古帝国蒙哥汗八年至九年,1258年-1259年)

[63] 開慶 - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%8B%E6%85%B6

宝祐6年12月3日(モンゴル帝国憲宗8年12月4日):翌年より踰年改元の詔が下る。

モンゴル帝国 - 憲宗モンケの9年

[71] sial34_061.pdf, https://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/73677/sial34_061.pdf#page=16

さらに松川節は,太宗オゴデイ十二年庚子(1240)十方大紫微宮懿 旨碑の末尾の


[45] 皇帝空位年は称制年が使われることがあります。

[51] 中文维基百科には元史に基づいて整理した >>16, >>10, >>15 と書かれています。 元史にはこの紀年は見えません。 元史記載の事実関係に基づいた紀年という程度の意味なのでしょう。

[16] 拖雷 - 维基百科,自由的百科全书 () https://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%8B%96%E9%9B%B7

元睿宗仁圣景襄皇帝(监国) 元年 二年

公元 1228年 1229年

干支 戊子 己丑

[10] 昭慈皇后 - 维基百科,自由的百科全书 () https://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%98%AD%E6%85%88%E7%9A%87%E5%90%8E

逝世 蒙古定宗元年 (1246年)

元昭慈皇后(称制) 元年 二年 三年 四年 五年

公元 1242年 1243年 1244年 1245年 1246年

干支 壬寅 癸卯 甲辰 乙巳 丙午

[15] 欽淑皇后 - 维基百科,自由的百科全书 () https://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%AC%BD%E6%B7%91%E7%9A%87%E5%90%8E

元钦淑皇后(称制) 元年 二年 三年

公元 1249年 1250年 1251年

干支 己酉 庚戌 辛亥

[55] 1228年 - 维基百科,自由的百科全书, , https://zh.wikipedia.org/wiki/1228%E5%B9%B4

蒙古拖雷(监国)元年

[56] 1245年 - 维基百科,自由的百科全书, , https://zh.wikipedia.org/wiki/1245%E5%B9%B4

蒙古昭慈后(称制)四年

[57] 1250年 - 维基百科,自由的百科全书, , https://zh.wikipedia.org/wiki/1250%E5%B9%B4

蒙古钦淑后(称制)二年

[17] 1228年 - Wikipedia () https://ja.wikipedia.org/wiki/1228%E5%B9%B4

モンゴル帝国* : トルイ監国元年

[12] 1242年 - Wikipedia () https://ja.wikipedia.org/wiki/1242%E5%B9%B4

モンゴル帝国* : 脱列哥那皇后(ドレゲネ)称制元年

[13] 1243年 - Wikipedia () https://ja.wikipedia.org/wiki/1243%E5%B9%B4

モンゴル帝国* : 脱列哥那皇后(ドレゲネ)称制2年

[14] 1249年 - Wikipedia () https://ja.wikipedia.org/wiki/1249%E5%B9%B4

モンゴル帝国* : 欽淑后(オグルガイミシュ)称制元年

[58] 真金 - 维基百科,自由的百科全书, , https://zh.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E9%87%91

出生 昭慈后(稱制)二年 1243年

逝世 至元二十二年十二月十日 1286年1月5日(43歲)

[11] チンキム - Wikipedia () https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%B3%E3%82%AD%E3%83%A0

チンキム(Činkim, ドレゲネ称制2年(1243年) - 至元22年12月10日(1286年1月5日))

[65] 杜世忠とは - コトバンク, 朝日日本歴史人物事典,デジタル版 日本人名大辞典+Plus,精選版 日本国語大辞典,デジタル大辞泉,世界大百科事典内言及, https://kotobank.jp/word/%E6%9D%9C%E4%B8%96%E5%BF%A0-583674

没年:建治1.9.7(1275.9.27)

生年:乃馬真后1(1242)

[66] 蒙古人日本で刑死。
[67] 山西省长三角招商网----三晋名人, http://www.sxzhb.gov.cn/sjmr/gdmr/songdefang.asp

乃马真后称制三年(1244年),

[69] Report82.pdf, , http://www.aisf.or.jp/sgrareport/Report82.pdf#page=65

ナイマチン(トレゲネ)皇后元年(1242年)、コルクズに継ぎイラン諸州の総督に就任し、民事に関わる行政事務を整備し、違法な納税を撤廃した。憲宗元年(1251年)、

[82] Mongol2.pdf, https://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/20780/Mongol2.pdf#page=31

蒙古で発見された漢文碑文。 日付中年は「□□丁巳」で□□は「歳在」と推定されている。 憲宗7年。

元の元号

[59] 元の元号

[94] 蒙古帝国は当初元号を建てていませんでした。 漢土とその周辺を統治するフビライハンは初めて中統建元しました。 その後至元年間に国号としました。

[92] 至正年間に漢土から撤退しました。 以後は北元と呼んで区別されます。 最後の2つが北元の元号です。

[93] 北元はその後しばらく存続しましたが、 元号は天元年間の皇帝死去の後断絶しました。


[95] 蒙古帝国北元元号は、属国高麗国でも使われました。 朝鮮半島の紀年法

イルハン朝

清領蒙古

清の元号

近代蒙古

[29] 共戴元年 == 西暦1911年 (1911年辛亥革命大清帝国滅亡を機に独立。 1913年中華民国及び露西亜帝国に独立を否定される。)

[30] 外モンゴルの自治政府は1920年中華民国侵攻で滅亡。

[32] 東蒙古: 満州国の日時

[31] 内モンゴル人民共和国

[72] 大モンゴル国臨時政府の成立 - acs054004.pdf, http://repository.tufs.ac.jp/bitstream/10108/23650/1/acs054004.pdf#page=20

蒙古国元年

[74] 蒙古國臨時政府から日本政府に宛てられた文書に 「蒙古國元年四月二十五日」 とありました。 >>73

[75] 日本語片仮名漢字混じり文。誰が日本語で書いたのかは不明。 付外務省文書 >>73 #page=19 に別紙訳文の如く云々と紹介されていますから、 日本側が原文 (蒙古語?) を受け取っていたとも思われます。

[77] のものとされます。 >>76 y~2229

[80] 蒙古暦の同年2月5日 () に蒙古國臨時政府設立が決議され、即日施行されていました。 同国は全蒙古の統合を目指していました。 >>76 #page=11

[78] 「4月25日」がどのなのか不明。蒙古暦でしょうか。

[79] 本文中ではそれ以前の表現に西暦年 (1箇所漢人が云々の箇所だけ清の元号) が使われています。 >>73

[81] 蒙古国臨時政府蒙古諸勢力の統合を実現できず、 諸外国の支持も得られないまま短命に終わりました。 この建国紀元もあまり使われることなく消えていったのでしょう。

現代外蒙古

[86] null, , https://web.archive.org/web/20040529151809/http://mopi-npo.com/mopitusin-28.htm

[96] https://waseda.repo.nii.ac.jp/record/65350/files/Honbun-8633.pdf #page=7

7. 本文中の年号、日付は原則として西暦を用いるが、必要に応じてオルドス暦と中国・ 日本の元号をそのまま使う。

[97] 暦をめくる、世界をめぐる

関連

[89] 西域の日時, 中央アジアの即位紀年

メモ

[33] グユク - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%83%A6%E3%82%AF#%E3%83%97%E3%83%A9%E3%83%8E%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%94%E3%83%8B%E3%81%8C%E4%BC%9D%E3%81%88%E3%81%9F%E3%82%B0%E3%83%A6%E3%82%AF%E3%81%AE%E5%8B%85%E6%9B%B8

[1] ツァガーンサル・白い月(モンゴルの正月) - 見上げてごらんモンゴルの星を☆ ( 版) http://blog.goo.ne.jp/izumin0321/e/21c309e979c5ab300aeacea39b877caf

モンゴルのお正月は、中国・韓国・ベトナムと同じように、旧暦で祝われている。(日本語では旧正月)しかし、モンゴルの旧暦は中国などとちょっと違うらしく、高僧であるラマ(お坊さん)が決めるらしい。

[2] モンゴルの暦 ( 版) http://homepage3.nifty.com/itako/mon_jiten103.html

モンゴル国および中国内蒙古自治区では、現在公式には西洋暦が採用されているが、伝統的な暦法(太陽太陰暦)も存在する。モンゴル民族の伝統であるツァガーン・サルと呼ばれる行事は、この旧暦の元旦を祝うものだ。このツァガーン・サルを祝う日にちは、モンゴル国ではチベット仏教に由来する暦法に基づいて決められているのに対し、内蒙古では漢民族の旧暦(農暦)の元旦に相当する春節の時期に合わせるのが普通だ。

[3] 旧正月 - Wikipedia ( 版) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A7%E6%AD%A3%E6%9C%88

モンゴル暦は、インドの暦に起源を持つチベットの太陰太陽暦である時輪暦の一種で、ラマ教(チベット仏教)の宗教行事などに使われている。 ツァガーンサルの日付は宗教的に決定され、前年に発表される。中国などの春節と一致する年も多いが、しばしば1日または1朔望月ずれる。常に朔日というわけではなく、少しずれることがある。

[4] Mongolian calendar - Wikipedia () https://en.wikipedia.org/wiki/Mongolian_calendar

[5] モンゴルの各種暦法 | モンゴル語の穴ぐら (いたこ著, ) http://a.itako999.com/2006/01/blog-post_7960.html

[47] モンゴルの暦 | モンゴル語の穴ぐら (いたこ著, ) http://a.itako999.com/2006/01/blog-post_2750.html

[46] 暦法・紀年法に関する話題 ( 版) http://homepage3.nifty.com/abayama/topic.html

モンゴルの旧暦

モンゴルでは、星占い師の話し合いで旧正月の元旦を決める。1999年は、2/17が元旦。日本、中国では、2/16。(1999/02/15のNHKラジオ第一より)

[8] チベット暦

[18] shirin_078_6_837.pdf, https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/239347/1/shirin_078_6_837.pdf

PDF p.6

丙戌の歳(一二二六年、チンギス・カンの二一年)

PDF p.18

モンケ時代の乙卯年(一二五五)

[19] (, ) https://web.archive.org/web/20040529151809/http://mopi-npo.com/mopitusin-28.htm

[22] シルクロードの文字をたどる - yoshiike144.pdf, , http://www.for.aichi-pu.ac.jp/museum/pdf12/yoshiike144.pdf

[20] mrh_029_025A.pdf, https://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/48030/mrh_029_025A.pdf

[21] http://repo.nara-u.ac.jp/modules/xoonips/download.php?file_id=5504

[60] 漢文・モンゴル文対訳「達魯花赤竹君之碑」(1338年)訳註稿, 「元朝~明朝初期の言語接触に関する文献学的研究」班, https://otani.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=35&file_id=22&file_no=1

[61] Mongul-un sonin bicig(1909-1918)という モンゴル語定期刊行物 -モンゴル語定期刊行物史における位置づけと所蔵状況1-, フフバートル, , https://swu.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=5875&item_no=1&page_id=30&block_id=97

発行日はここに見るNo.117と同じく,7月17日(旧暦6月9日)となっているが,漢字では「俄歴七月十八號」である。

14 定期刊行物発行の年月日については,「宣統」と「共戴」の年号を西暦に換え,月日は旧暦の記載のまま記述する。

No.219とNo.221が「1916年12月」であるのは,閏月のためであろう。

[62] sial20-123.pdf, https://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/17150/sial20-123.pdf#page=11

[64] 26_suga.pdf, , https://www2.nao.ac.jp/~mitsurusoma/gendai5/26_suga.pdf

[68] チンギス・カン - Wikipedia (, ) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%B3%E3%82%AE%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%B3#cite_note-died_days-3

[70] Resume4-Tachibana.pdf, , http://eurasiaken.sakura.ne.jp/wp-content/uploads/2016/04/Resume4-Tachibana.pdf#page=10

火 龍 年 四 月 二 十 二 日 ( 1916 年 ) 付 在 フ レ ー ・ チ ベ ッ ト 人 の 書 簡

[ モ ン ゴ ル に 住 む ] チ ベ ッ ト 人 一 切 と 、 [ チ ベ ッ ト ]政 府 の 銀 行 の 新・旧 管 理 者 が 、と も に 火 龍 年 の 四 月 二 十 二 日 に[ 献 上 し ま す ]。

(共戴が使われた時代の在蒙古チベット人)

[83] 古代蒙古人專有的月名 - 人人焦點, https://ppfocus.com/mo/0/hi1a8e3c5.html

[84] (PDF) Questions about the calendars of the Mongols from 13th to 16th century 十三至十六世紀蒙古曆法的幾個問題 | Kai-lung HO - Academia.edu, https://www.academia.edu/3726135/Questions_about_the_calendars_of_the_Mongols_from_13th_to_16th_century_%E5%8D%81%E4%B8%89%E8%87%B3%E5%8D%81%E5%85%AD%E4%B8%96%E7%B4%80%E8%92%99%E5%8F%A4%E6%9B%86%E6%B3%95%E7%9A%84%E5%B9%BE%E5%80%8B%E5%95%8F%E9%A1%8C

[85] https://otani.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=35&file_id=22&file_no=1