[5]
改元時に発出された内閣告示で、
新元号の読み方は
「タイシヤウ」
と発表されました
>>12。
現代仮名遣いでは
「たいしょう」
に当たります。
新元号と共に読み方が正式発表されたのは、
史上初でした。
[6]
東京日日新聞
と
大阪毎日新聞
(ともに現在の
毎日新聞)
は、
「たいせい」
という誤った読み方を報じました。
>>4
[23] 正式な元号の読み方が定められたのがこの時初めてだったということは、 「正しい読み方」が存在するという観念も記者にはなかったのかも?
[46]
マスコミ関係者はこれ以外の改元デマ事件でも、
「記者がつかんだ情報違っていたのかもしれません」
のような
“取材時点では正しかったかも”
式の擁護をする習性があるようです。
[47] そりゃあ可能性はあるでしょうよ。 でもその可能性を敢えて強調する必要はありますかね? ちょっと考えただけで、
... くらいは思いつくわけです。そのうちのいくつかは “取材時点では正しかったかも” よりずっと蓋然性は高いのではないでしょうか。
[22] 世紀の大誤報「光文事件」とは? 大正、昭和、平成の元号スクープ合戦を追った(ハフポスト日本版) - Yahoo!ニュース () https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190331-00010001-huffpost-soci
[90] 大正改元は、 一世一元の詔、 皇室典範、 登極令 によって定められた制度で初めての改元でした。
[110] 、 明治天皇のご病状が絶望的と診断され、 内閣総理大臣の西園寺公望は非礼ながらも万一に備えて元号勘申の内案を作成するよう、 内閣書記官長の南弘に命じました。 >>108, >>115
[111] >>115 (一説夜 >>108)、 西園寺公望は提出された元号案を閣僚に僉議させ、 各大臣特に異議なしとしました。 ところが西園寺公望は「一も採る所なし」と却下しました。 >>108 (乾徳, 永安。どちらも元号や宮殿名に用例ありとして却下。 >>115)
[113] >>115 の再提出案も西園寺公望は「採る所なし」と却下しました。 >>108 (昭徳, 天興。どちらも人名や宮殿名に用例ありとして却下。 >>115)
[114] 西園寺公望は3度目の案を提出させました。 (大正, 興化) >>115 >>115、 第1を大正、 第2を天興、 第3を興化とする元号勘文内案を取りまとめました。 >>108 (大正大礼記録)
[91] 明治天皇がの9時43分に崩御すると >>89、 大正天皇が践祚し、 登極令 により代始改元が行われる必要が生じました。
[92] そこで大正天皇は元号建定を命じました。 >>89 西園寺公望は、 元号案 (>>114) と詔書案を枢密院に諮詢しました。 >>89, >>115
[93] 枢密院は提示された案から大正を選び、 詔書案を可決しました。 >>89, >>115
[94] 17時半、 枢密院議長の山縣有朋が詔書案を大正天皇に奏上したところ、 議決通りに勅定されました。 >>89, >>115
[95] よって直ちに改元詔書が発せられ、内閣の全員が副署し、 官報により公布されました。 即日発効しました。 >>89, >>115
[97] また、 読み方は内閣告示第一号により示されました。 >>89, >>115
[88] 新元号が「大正」であることは、 朝日新聞 記者の緒方竹虎が一早く情報を入手して号外で発表したとされます。
[98] 当時はもちろん現在のように政府から国民に即時直接情報伝達する媒体はなく (官報が公式な発表媒体ですが、印刷されて全国に配布されるまで時間がかかります)、 報道各社を集めて記者会見で発表するという制度もまだありませんから、 政府情報の公表の考え方がまず現在とはまったく異なるという点には注意が必要です。
とする「雑学」が広まっています。
[104] もしこれが事実なら、 緒方竹虎と朝日新聞が政府の秘密情報を盗み出して公表した情報漏洩事件なのですが、 なぜか武勇伝のように語られています。
[105] しかし事実関係や時系列、社会背景の現在との違いといった事柄はまともに検討されていません。 改元の1年前に号外が出されたと主張する記事まであります。
[65] 福岡市 緒方竹虎, , https://www.city.fukuoka.lg.jp/chuoku/kikaku/charm-kankou/ch-jouhouhassin/ogatataketora.html
25才の時、「大正」という元号をスクープしたことでも有名です。
[66] 時代が時代とは言え政府の未公開情報を漏洩させた事件を郷土の偉人の偉業のように自治体が紹介するのはいかがなものかと。。。
[71] 激動の時代に生きた巨人 緒方竹虎 | ふるさと歴史シリーズ「博多に強くなろう」 | 地域社会貢献活動 | 西日本シティ銀行について | 西日本シティ銀行, https://www.ncbank.co.jp/corporate/chiiki_shakaikoken/furusato_rekishi/hakata/034/01.html
対談:昭和60年9月
司会・構成:土居 善胤
お話: 福岡市長 進藤 一馬氏
聞き手: 福岡シティ銀行頭取 四島 司
四島
大正の元号制定。あの大スクープはまだ新聞記者駆(か)け出し時代ですね。あれもそういうことから。
進藤
大勢の記者が目をつけていたでしょうが、緒方先生は三浦さんに信用されていたので、元号は「大正」、読み方はタイショウであると教えてくれたんです。
大スクープですね。後に緒方先生は三浦さんの遠縁にあたるコト夫人と、玄洋社の創始者である頭山満先生(安政2-昭和19年)の媒酌で結婚していますから、ずいぶん信頼されていたんですね。
[72] 市長からしてこんな感じなのか、福岡やべーところだな。 福岡市政もそんな風に縁故者に情報ダダ漏れでやってるんか?
[67] 元号案を2度ボツにした「最後の元老」(2ページ目)|日経BizGate, 日本経済新聞社, https://bizgate.nikkei.co.jp/article/DGXMZO4297349027032019000000?channel=DF150320194919&page=2
大正改元は、メディアが激しく取材合戦する最初の元号ともなった。いち早くスクープして号外で報じたのが、朝日新聞に入社2年目の記者だった緒方竹虎(後の朝日新聞副社長、国務大臣、官房長官、自由党総裁)だ。ネタ元は枢密顧問官の三浦梧楼。緒方は学生時代から面識があり、枢密院会議の帰りを三浦邸で待ち構えて新元号を聞き出した。後に緒方は三浦と親戚関係になったという。
[68] 世紀の大誤報「光文事件」とは? 大正、昭和、平成の元号スクープ合戦を追った | ハフポスト NEWS, https://www.huffingtonpost.jp/entry/koubun_jp_5ca08946e4b0bc0daca9db31
1911年8月30日の号外で「大正」への改元をスクープしたのは、大阪朝日新聞の号外だった。入社1年目の新人記者、緒方竹虎(おがた・たけとら)が手がけたものだった。
政界に影響力を持っていた枢密顧問官の三浦梧楼の自宅に自動車で向かい、情報を得たという。『緒方竹虎』(朝日新聞社)には次のように書かれている。
<<当時政界の大御所として隠然たる勢力のあった三浦の家には、多くの新聞記者が平常から出入りしていたが、緒方の出入りは学生時代からであり、かつ信用も厚かったので、三浦は帰宅するや、「大正」と元号が決ったこと、その発音は「タイショウ」であることを教えた。緒方は直ぐさま社に飛帰って号外を出したが、朝日新聞が一番早かったため、特別に賞与を得た>>
[69] この成功体験がマスゴミ各社を勘違いさせてしまったと言われている。 光文事件の遠因で (なお毎日新聞はこの大正改元の裏で既にやらかしているのだが)、 京城日報改元詔書偽造事件の遠因でもあり、 平成改元の折に毎日新聞社の記者が業界で表彰されると張り切っていた元凶でもあるんだな。 一般庶民には理解不能な感覚だろう。
[70] 緒方竹虎とは?経歴や緒方貞子との関係性、また元号「大正」やCIAとの関わりについて解説!, https://history-men.com/ogata-taketora/#i-4
この時まだ新人の緒方竹虎は、天皇の諮問機関である枢密顧問官を務めていた三浦梧楼と面識があたっため、邸宅で待ち構え三浦梧楼から新元号「大正」を聞きだします。
緒方竹虎が聞きだした新元号「大正」はすぐさま新聞で報じられることとなり、緒方竹虎は名を馳せることとなりました。
[75] 枢密院に仕えながら情報を漏らすとか天皇への冒涜、朝敵だろこいつ、なんで処分されてないのですかねえ。 天皇は神聖でうんたらかんたらというのは虚像で実態はこういう奸臣に蝕まれてたわけだ、 そりゃあ国も滅びますよ。
[73] 元号をめぐる誤報「光文事件」はなぜ起きた?事件の経緯や現在の改元制度などを歴史好きライターが簡単にわかりやすく解説 - ページ 2 / 4 - Study-Z ドラゴン桜と学ぶWebマガジン, https://study-z.net/100192362/2
実は、年号が「明治」から「大正」に変わることは事前にスクープされています。1911(明治44)年8月に、大阪朝日新聞が号外を出しました。その内容が、新元号は「大正」で読み方は「タイショウ」であるというものだったのです。スクープしたのは、まだ新人記者だった緒方竹虎でした。
緒方は、当時の大物政治家だった三浦梧楼から、新元号が「大正」となることを聞き出すことができました。緒方は学生時代から三浦の自宅に出入りしていたため、三浦から信頼を得ていたのです。のちに緒方は朝日新聞社の副社長にまで出世。さらには国会議員となり、第4次吉田茂内閣では副総理となりました。
[74] 倫理観ぶっ壊れてるやつが副総理とかやばいよな。そういう時代だったんだろうけど。
[79] 政府の漏洩情報をつかめば「勿論」新聞社のトップに昇進できる。事実関係はどうかわからないが (>>266 は出典も明記していないただの個人ブログ)、令和時代の一般市民からみてそう認識されているということである。
昭和63年9月に政治部長になった羽原清雅は先輩らに冷やかされたとして、 大正改元時の朝日新聞の緒方竹虎は後に主筆になったこと、 昭和改元時の東京日日新聞が光文事件を起こしたことを述べている。 この説明では「冷やかされた」が何に掛かっているのかいまいちよくわからないが (新聞記者の悪文は今も昔もよくあることだ)、 改元情報と新聞社の出世の関係が昭和末期の朝日新聞社内では公然と認識されていたということなのだろう。
[82] なお昭和63年9月といえば昭和天皇の体調が急激に悪化していた時期で、 世間では崩御と次の即位、改元のことは世間では秘かに囁かれていたので、 新聞社内でそれが話題になるのは当然のことだが、それをこのようにおもしろエピソード(?)として披露する倫理観はどうなってるのか。
[13] 当日の官報は先帝崩御と新帝即位を伝える号外が何度も発行されています (>>9)。 官報記載の発行日も掲載されている法令等も、 改元の詔書までの号外はすべて明治で、 その次の号外からはすべて大正となっています。
[83] 大正改元の時代はまだ無線通信が実用化前で、 奥山や離島への改元伝達には最大で数ヶ月もの時間差がありました。
[42]
伊豆諸島の青ヶ島には改元の知らせが1年近く到達しなかったといわれています
>>384。
(出典は不明ですが、参考文献として示されている村史等のいずれかでしょうか。
[78] 青ケ島の生活と文化, 青ケ島村教育委員会, 青ケ島村, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9643307/1/519 (要登録)
[44] 小笠原諸島の硫黄島には改元の知らせがに届きました。 たまたまその時期に学術調査団が訪問したためで、 それがなければ更に数ヶ月遅れていた可能性があったようです。
[1]
硫黄島到着がいつのことか明記されていない。
文脈から読み取れるのは、最速でも。
最遅でも。
[35] 歴史 | 小笠原村公式サイト, https://www.vill.ogasawara.tokyo.jp/ioutou_index/ioutou_history/
1912年(明治45年)(大正元年) 8月12日、東京地学協会伊豆南方諸島学術調査団が硫黄島を調査。
[36] 出典不明。村内の記録にあったもの? (硫黄島は言わずとしれた大東亜戦争の激戦地で米軍に徹底的に破壊され、 父島も米国統治時代に一旦更地にされているので、 当事者の記録だとすると一時内地に疎開した資料ということになる?) それとももともと内地側の何らかの記録に依拠したもの? (このWebページの直接の出典はPDFで公開されている硫黄島クロニクル。 それに参考文献として示されているどれかに書かれているのだろうが。)
[37] >>21 は執筆、調査団メンバーの回顧。 57年も経過していて、自身の記録に基づくのか記憶で書いたのかは不明。 8月14日に横浜発とは断言していて、 2回に分けて出発したような形跡もみられない。 これが正しく14日に出発したのだとすると、12日に調査することは不可能。 (出発日を誤認したものでもないが、 出発式のようなものが事前にあった可能性も?)
[38] 東京地学協会編年史稿, 石田龍次郎, , https://www.jstage.jst.go.jp/article/jgeography1889/78/3/78_3_83/_pdf#page=22
-実施とある。 出典は当時の機関誌で、誤り無いとみてよかろう。
[41] 当時 (年内) の報告書によると、 有人の寄港地は八丈島、 鳥島、 父島、 母島、 中硫黄島。 このうちの硫黄島のみ、 歓迎されたが崩御が伝わってなかったのだと書かれてありました。 >>39 この記述より硫黄島への改元初報がと確定できます。 他の各島は改元を知っていたと推測できますが、 明言されていないので確定はできません。 (硫黄島だけ盛大な歓迎を受けたので特記したとも考えられなくないためです。)
[43] 海底ケーブル (電信線) に言及がありましたが >>21、 父島には電信の中継局が有りましたから、 早い時期に伝わっていたのかもしれません。
[16]
尾崎行雄は改元を廃し明治の元号を継続することを提案していたといいます。
[34] 082026_hanrei.pdf, , https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/026/082026_hanrei.pdf#page=23
[76] 文化・教育:オピニオン:教育×WASEDA ONLINE, , https://yab.yomiuri.co.jp/adv/wol/opinion/culture_120709.html
1880年代の後半(明治10年代末)、坪内逍遙が文学革新の試みを続けていた頃、自由民権運動を背景とした「政治小説」と言われるものが書かれた。その代表作の一つ、末広鉄腸『雪中梅』(1886)は、明治173年(2040年!)の国会の祝日の折、「先日の大雨で上野博物館の後に当る鴬谷の崖が崩れると其中から一の石碑が出ました」というエピソードから始まる。国会開設に挺身した人物の記念の石碑で、その人の事蹟を書いた物語を「上野の書籍館」でやっと見つけ、以下に紹介する、という手の込んだ導入である。学生の頃初めて読んで、「崖」から不思議なものが出て来るという設定を、面白く思った。
[24] 明治村の写真撮影用の看板には明治何年何月何日と書かれています。 >>25, >>26, >>320 西暦2004年夏から設置されています。 >>28
[33]
また、
[30] なお、Webサイトや入場券には西暦年が使われているようです。 あまり世界観設定が徹底していないようです。
[60] には分かっていた設置時期 >>28 がにはもう分からなくなっている >>59 ってこと? それとも平成31年のは間違いだった?
[62] 『2008 猛暑で過酷な明治村』犬山(愛知県)の旅行記・ブログ by マチャさん【フォートラベル】, マチャ, 2008/07/20, https://4travel.jp/travelogue/10256579
明治141年7月20日
[61] 『校外学習で明治村へ(^v^)V』犬山(愛知県)の旅行記・ブログ by HARUさん【フォートラベル】, HARU, 2009/12/02, https://4travel.jp/travelogue/10406321
明治142年12月2日
[18] 元号建定ノ詔書案 (独立行政法人国立公文書館 | NATIONAL ARCHIVES OF JAPAN著, ) https://www.digital.archives.go.jp/das/image/M0000000000001748319
[19] 元号ノ称呼 (独立行政法人国立公文書館 | NATIONAL ARCHIVES OF JAPAN著, ) https://www.digital.archives.go.jp/das/image/M0000000000001748320
[20] 改元ニ付テハ法律勅令閣令告示等公布ヲ要スル番号更新スルコト... (独立行政法人国立公文書館 | NATIONAL ARCHIVES OF JAPAN著, ) https://www.digital.archives.go.jp/das/image/M0000000000001748322
[64] 公正取引 (1)(303), 公正取引協会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/2682225/1/10 (要登録)