[2] 承広なる元号が使われることがあります。 承応と字形の類似から発生した異年号と考えられます。
[36] 現在知られている用例は3系統6点あります。
[40] いずれも文脈から承応の誤りと考えて間違いないものです。 しかも昭和時代中期以降であり、 当用漢字字体表以来の新字体の「応」と「広」 の字形の類似から生じた可能性が高いと思われます。 (それ以前の用例が発見されれば、新字体の標準化以前の略字や草書の影響も考えるべきでしょうが。)
[41] 同系統と思われる >>20 >>24 以外は相互の影響が見られません。 西暦との比定にも3種類あり、たまたま独立に発生した誤りとも思われます。 ただ用例が中国四国地方に偏っているのは少し気になります。
[16]
の数学史の論文が、
「
[18]
[9]
日本国香川県高松市の若一王子神社の由緒案内板に、
「
[10] 本案内板には宮司の和多為範が筆者だとある以外に情報がありません。 看板と文章の様式からすれば昭和時代の中期から後期の作文・設置でしょうか。
[11] 本案内板文中には他にもいくつか皇紀、西暦、日本の元号、天皇名の併記による年表示があります。 承広も日本の元号と解するのが自然です。
[12] なお、他の年表示のほとんどは定説通りですが、 皇紀2192年 = = 天文元年 / 後奈良天皇だけは不審です。 定説によれば天文元年は皇紀の2192年、後奈良天皇の治世ですが、 西暦はです。63年もずれています。 慶長元年がですから、 はその前の文禄の (改元年の前の) 最終年に当たります。 この誤記により、 本案内文中の年表示が660を足し引きして求めたものではなく、 換算表のようなものから年数を拾って書いていったと推測できます。
[32]
日本国徳島県徳島市の不動地区の公民館広報誌のに公民館長が寄稿した地域史解説文に、
「
[34] 記事内容の出典は明記されていません。 地域の資料などに依ったものでしょうか。 一次史料に直接依拠したものではなく、 地域史のような形で一旦まとめられたものを整理して記事化したようにみえます。
[35] 「広」に「おう」の振り仮名が振られている点、 著者の指定の通りなのか、 誤植なのか気になります。
美都町都茂の広兼家は承広元年(1651)より200年間浜田藩のご用紙漉きをつとめてきた。「匹見町においては、江戸初期よりその製造が始まり、農家の冬期副業としてその技術が伝えられてきた。匹見町内に『紙祖』という地名が残っているが、石見半紙発祥の地が、実は匹見であることはあまり知られていない」(「石西の今昔」HP)。
... とあります。 >>21
[22] この年号部分の出典は不明です。後段の引用と同じく 石西の今昔 なるサイトが情報源の可能性もありますが、 このサイトは令和時代初期時点で既に存在しておらず、 確認できません。
[24] その「広兼家」について、 地元の自治体や地域団体等が出資している会社のWebサイトの 「大久保広兼 石州和紙資料館」 の案内文に、
廣兼家は承広元年(1651)より200年間浜田藩の御用紙漉きをつとめました。この資料館は、廣兼家13代に及ぶ資料を展示したものです。
... とあります。
>>23
この文が書かれたのがいつなのかは不明ですが、
同じWebサイトの「お知らせ」欄の最古は「
[26] この種の施設案内文は自治体や観光団体が用意した同じ文章を自治体や地域団体のパンフレットやWebサイトに掲載したり、 外部企業の雑誌やWebサイトなどに提供したりすることが多いものです。 そこで同じような文面を探してみると、 出資元でもある地元自治体の Webサイトに、
承応元年(1651)に御用紙漉を仰せ付けられた初代廣兼又兵衛重長以後200年間、廣兼家13代に及ぶ資料を展示しています。
... とありました。 >>25 こちらでは「承応」と元号名は正しいですが、西暦年は1年ずれています。
承広元年/1652年 塩原に地震起こる。高原山に6戸移りくる。
... とあります。 >>27
[29] このWebページはの合併で消滅した旧藤原町の略史を掲載したものです。 >>27 各自治体は自地域の略年表を作成していることが多く、 この年表もそれを元にした可能性が高いでしょう。 もしそうだとすると、 旧町時代から 「承広」 が使われていた可能性があります。 (そうでなければ、 元にした年表が紙媒体で、 OCR 時に誤認識された可能性もあるでしょうか。)