[49] >>48 は長禄とする箇所が多いですが、2箇所「
[172] 張六, ちゃう六は、 長禄の異表記と考えられています。
[176] 各地に広く用例が残っています。集成した研究がこれまでほぼ無いので知られていないだけで、 他にも探せばまだ出てきそうな感じがあります。
[137] 元号研究の文脈で紹介された事例は知られていません。
[175] 3年は長禄であれば己卯となるはずが戊寅や庚寅となっています。
[4] ちやう六, ちやう六く, チやウ六, 張六といった元号名の用例が知られています。
[178] 一部は干支年に不審な点があるとはいえ、 一般の公年号でもありがちな誤記か何らかの誤解による揺れと理解できる範囲に収まっており、 長禄への比定には問題ないのではないかと思われます。
[368] 六は一般的に仮名とは見なさないものの、
もっぱら音のみを根拠に当てたものと思われ、周りが仮名であることからすれば、
一種の仮名と理解するのが妥当と考えられます。
[181]
「六く」は六がろと同音の仮名として用いられているというよりは、
漢字の「ろく」が送り仮名の「く」によって音を明確に示したものと理解するのがよいでしょうか。
[180] 張六の張もまた仮名であると言うのは若干の抵抗があるものの、
これもやはり表音的機能のみから当てられたもの
(「張る」などの意味を表すものではない)
と解するのが適切でしょう。
[182]
六表記に為政者への揶揄のような感情を読み取ろうとする説 (>>91) もあるものの、
物証が示されているわけではありませんし、六という文字にそうした用法を見出すのは無理ではないかと思われます。
[183] 一般に中世の仮名文書では仮名に加えて漢数字等の少数の漢字が使われて表記されるものですから、 筆記者の頭の中には「仮名 + 少数の漢字」という文字集合があって、 漢字語を仮名表記するとき、そのいずれの文字も表音文字として選ばれ得る、 というだけのことなのでしょう。
[186]
用例が全国に分布し、互いの深い関係性が見出だせないということは、
「ろく」を六で表記する発想は当時の日本語話者にとってかなり自然で普遍的だったと思われます。
[184] 情報処理の観点では、「ちやう六四年」が「「ちやう」64年」でなく 「「ちやう六」4年」と解釈されるべき、つまり元号名の末尾が漢数字たり得る、 という厄介な現実に向き合う必要があります。
[185] 中世日本では 64 を「六四」と表記する位取り記数法は行われなかったと考えられるので、 当時の人々は困ることもなかったのでしょう。
[165]
幕末から明治時代初期に編纂された
旧記雑録
は、
>>160
に
「
[171]
その平成刊本
は、
>>160
に
「
[168]
>>148
に
「
[152]
の論文は、
>>148
を紹介し、
「
[154]
の史料集は、
>>148
を紹介し、
「
[74]
明治時代の香取文書纂は、
>>524
に
「
[92]
>>59
に
「
[75] 昭和時代の香取文書は、 >>59 >>364 に特別注釈は付けていないものの、 順序として長禄年間に配列しています。 >>289
[76]
の論文は、
>>59
を引用し、
「
[130]
の史料集は、
>>120
を紹介し、
「
[124]
の史料集は、
>>120
を紹介し、
「
[126]
の史料集は、
>>120
を紹介し、
「
[189] 昭和40年の久保常晴の論文は、 >>59 を長禄と同音異字の異年号として掲載しています。 >>188
[81] 昭和42年の 日本私年号の研究 は、 >>59 を紹介し、
と述べています。 >>78
[117] , の史料集は、 中家文書の用例群 >>131 を紹介し、 ママ注と比定年を注釈しています。 >>140, >>93
[118] 元号年と干支年が一致しないものが多いですが、 元号年に基づき年を決めているようです。
[147] >>94 は二かで原本と写本の翻刻が分かれています。
また、前者をとするのは元号年通りですが、
後者はなぜかと注釈されています。
[51] 坂戸市史 中世史料編 2, 坂戸市教育委員会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9642035/1/242?keyword=%E6%94%B9%E5%85%83 (要登録)
[6] 長禄の延長年号の使われた事例 (干支不一致も参照) :
[50] 多古町史 上巻, 多古町史編さん委員会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9643568/1/120 (要登録)
長禄5年7月 千葉県下
[38] 新井白石全集 第五, 国書刊行会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/990985/1/351 (要登録) 右上
長禄9年 (干支なし)
[39] 大日本地名辞書 上巻 二版, 吉田東伍, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/2937057/1/883 右上
長禄9年 (干支なし)
[42] 日本随筆大成 㐧三期 㐧六巻, 日本随筆大成編輯部, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1914187/1/344 (要登録) 右
長禄9年 (干支なし)
[43] 尾三郷土史料叢書 第5編, 愛知県教育会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1243481/1/161 右
長禄9年 (干支なし)
[44] 吉川村郷土誌 第2輯, 吉川村編輯部, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1056924/1/70 右
長禄9年 (干支なし)
[45] 豊島区史, 坂本辰之助, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1042113/1/57 (要登録) 右
長禄9年 (干支なし)
[47] 歴史研究 = Journal of historical studies (25), 大阪教育大学歴史学研究室, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/7938715/1/21 (要登録) 左
長禄9年卯月22日付長逸判物
[41] 大日本史料 第8編之9, 東京大学史料編纂所, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/3450591/1/302 右
長祿九年を文明9年の誤りと解釈している模様
[46] 日本橋駿河町由来記, 駿河不動産, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/3010393/1/15 (要登録) 左下
長禄元年丁己 (非妥当干支)
[9]
に日本国奈良県吉野郡川上村金剛寺を訪問した研究者の滝川政次郎によると、
「自天勝公宮」
の扁額の裏書に
「長禄九
[10] 金剛寺は後南朝二の宮 (一の宮自天王の弟) の御座所でした。 扁額は川上村大字井光の名家伊藤氏の旧蔵です。 >>72
[11] 滝川政次郎によるとこの裏書は真っ赤な贋筆です。 というのも、 後南朝に仕えたのは北畠教具です。 他に北畠具教もいますが、時代が合いません。 伊藤氏の祖先が自天王の旧跡を川上に持ってくるため偽作したと推測されます。 >>72
[12] 長禄は4年で終わっており、 奥山かつ後南朝勢力下で改元伝達の遅延があったとしても、 5年の延長年号は遅れすぎです。 しかも9年だとしても、元年の誤りだとしても、 干支年が合いません。
[27] 寅年なら、
があるものの、
二/九, 戊/丙の2つの誤りとするには不審が過ぎます。
[18] 金剛寺の後方、石段を上がったところには河野宮 (二の宮) 御墓があります。 河野宮御墓は従来一の宮自天王尊義王の墓として川上村で守られてきましたが、 明治時代に宮内省が二の宮河野宮の墓に治定しました。 >>72
[19] 河野宮御墓の玉垣内には宝篋印塔が2基あり、 「長禄元年十二月二日」と刻まれているとされますが、 滝川政次郎はよく見えなかったとしています。 >>72
[20] この長禄元(1457)年12月2日は、 宮が赤松の残党によって殺された日とされています。 >>72 この事件は現在では長禄の変と呼ばれています >>21。
[28]
滝川寺にはこの時期と思われる干支年の用例もあります。
[55] より新しい資料では、 「永禄」 と読んでいます。永禄だとすると、干支年は一致しますし、 北畠具教でも違和感がありません。
[56] ただ残念なことにこの扁額は焼失してしまったようです。写真などが残されているのかは不明です。
[31] 日本外史講義 上, 河村北溟 述, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/770466/1/200
[32] >>31 長禄の変のことを
[33] これが直接川上村の遺物に関係しているとは思われませんけど、 あるいはこういう資料を元に作って誤ったという可能性もあるでしょうか。
「
[35] >>34 >>36 >>37 明らかに「元」の誤り
[40] 布教大辭典, 田淵静縁, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1085751/1/152 左下
長祿九丁丑の年四月八日
[7] 江差町史 第5巻 (通説 1), 江差町, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9570777/1/48 (要登録)