[348] 三河吉野朝説は、 南朝の朝廷が日本三河国に所在していたとする独創的な説です。 昭和時代初期に提唱され現在まで一部で信仰が続いているようです。 信頼できる史料に根拠はありません。
[349] 三河吉野朝説では、南朝の元号の1つを弥勒としています。
[354] 三河吉野朝説によると興国天皇の次代が兄弟の小室門院元子内親王で、 三河で弥勒と改元したことがそれを伝えていると思われるそうです。 >>351
[356] 弥勒の振り仮名が「
[357]
に日本三河国望理郷で奉納された萬歳の歌詞に
「弥勒十年辰の年」云々とあるのを小坂井町
[361]
このあたりの三河吉野朝説のストーリーのどこまでが元々の伝承の流用でどこからが独自説なのかはよくわかりませんが、
三河万歳に「弥勒十年辰の年」云々の歌詞があって
小坂井町誌
に掲載されている >>360 /321
のは確かです (
[369] 三河吉野朝説ではこれが三河万歳の起源だとされます。 >>367
[368] 三河吉野朝は天授5年9月に崩壊したとされます。 >>367 弥勒もそれまで使われた想定でしょうか。
[352] 現在確認されている中では昭和時代後期頃に弥勒の説が登場する >>351 のが最初です。 それ以前から三河万歳への言及はあったものの >>350、 元号に関連付けられてはいませんでした。
[353] 弥勒を三河吉野朝の元号とする説は昭和時代後期頃になって新たに付け足されたものなのでしょうか。 なお白鹿や天靖はより早い時期から三河吉野朝説に取り込まれていました。
[359] 三河吉野朝説では南朝は正副 (正偽) の2統に分裂し、 正統は北陸朝廷や三河吉野朝などを経て三浦天皇に連なるとされています。 北陸の元号である白鹿を使った北陸朝廷をモデルに三河の元号である弥勒を使った三河吉野朝の構図が生み出されたのでしょうか。
[371] 令和時代の三河吉野朝信仰者は寛成親王 (史実では長慶天皇) が三河吉野朝で即位したのが = 弥勒元年としており (通説では)、 昭和の頃の説とも少し変わっています。 >>370, >>373
[374] また、 日本国静岡県静岡市葵区弥勒が 「東海の女王・小松媛元子天皇(内親王)」 に関係するとしています。 >>373
[375] よくわからないのですが、弥勒が長慶天皇の元号という設定に変わっても、 弥勒が表すのは内親王ということには変わりないようです。
[376]
なお、江戸時代から明治時代にかけて弥勒を後南朝の元号とする説もありましたが
正平23(1368)年3月11日、後村上天皇崩御の後、寛成親王は吉野朝第98代の天皇に即位されました(27才)。
藤原石山氏は三河で降誕した親王が即位される事が決まった正平22(1367)年、三河では国を挙げて祝賀し、北陸朝廷の皇位継承者・小室門院元子内親王を迎え、天照太神の再現と考え、弥勒菩薩の出現と尊崇して、この年を弥勒元年と称したと述べています。
藤原石山氏は小室門院を尊良親王の皇女としていますが、三浦芳聖は守永親王(興国天皇)の皇女と述べています。
藤原石山氏の考察と、上記の記事から考察すると、寛成親王が即位されたのは、正平22(1367)弥勒元年であった可能性があります。国を挙げてお祝いしたという状況から、その様に考える方が合理的です。
また、小室門院元子内親王を三河にお迎えした時期については、興良親王が虜われの身となった文中2年(1373年)以後、あるいは興良親王が崩御された天授元年(1375年)以後と考える方が合理的です。
天授2(1376)年、三河吉野朝の仙洞御所・王田殿の建立に当り、その目出度い柱建に萬歳が奉納され、その時の歌詞に
「弥勒の十年辰の年、諸神の建てたる御家(オヤカタ)は風が吹いても祟る風(邪魔風)はないという」とあり、三河吉野朝の黄金時代を謳歌したのもつかの間
興国1(1340)三河建都を計画「興国」と改元。以後、後村上天皇は北畠親房に奉じられて三河多賀の里(相良町)に行在(吉野朝の研究)
興国3(1342)壬午年8月13日、寛成親王、三河に於いて降誕(青木文献)
正平2(1347)年、寛成親王、吉野へ上る(青木文献)6才
正平22(1367)年、弥勒元年(藤原石山)。この年に寛成親王は三河吉野朝の天皇に践祚したと思われる。26才
静岡県静岡市葵区弥勒
「弥勒」とありますのは、東海の女王・小松媛元子天皇(内親王)は、三河に行在時に「弥勒さま」と尊崇されたという伝承を立証する地文です。
この件についての参考資料は『三河吉野朝廷は、正平22年(1367年)、「弥勒元年」に改元した』という藤原石山先生の研究があります。
この正平22年(1367年)の「弥勒元年」は、長慶天皇が三河吉野朝で践祚した年で、正平から弥勒に改元したことが分かります。