广仁

応仁

元号名

異体字

[8] 関越自動車道(新潟線)地域埋蔵文化財発掘調査報告書 第20集 (上野国分僧寺・尼寺中間地域 2) /本文編, 群馬県埋蔵文化財調査事業団, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/12259641/1/800?keyword=%E5%BF%9C%E4%BB%81 (要登録)

广仁

[9] 千葉県史料 金石文篇 3 補遺, 千葉県企画部県民課, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9641996/1/38?keyword=%E5%B9%BF%E4%BB%81 (要登録) /49

元号略号

応任

[90] 応仁応任と表記されたとみられる事例がいくつかあります。

用例

[87] 用例はいくつか知られています。

相模国

日時事例

[86] >>12 の現況について正確な情報は見当たらず不明ですが、 木造薬師三尊像の本尊内に室町時代奥書ある大般若経があったとされます >>85>>12 がそれと同一かどうかは不明ですが、 薬師三尊像や他の像は鎌倉国宝館の所蔵となったとされ >>85>>12 も同様である可能性があります。

[51] , の史料集は、 >>12 を紹介して、 「 (〔仁〕) 」 (明朝体) と注釈しています。 >>48

[56] の史料集は、 >>12 を紹介して、 「應任 ((仁)) 」 (明朝体) と注釈しています。 >>54

下総国

日時事例

[93] 第1字を >>65 は敢えて作字して異字と明言しています (>>68)。 現在旧字体として知られる字形と明確に異なっていると思われます。

[94] >>60 は2字としています (>>61) が、後続の文献はまったく言及していません。

[95] はどの文献も不明としており、銘文全体が判読が難しい状態にあるとも思われます。

[97] 応仁3年4月28日に文明改元されており、+5年の延長年号です。


[61] の論文は、 >>15 を紹介して、 「 () 」、「 (マヽ) 」 (明朝体) と注釈しています。 >>58

[68] の書籍は、 板碑私年號の事例として >>15 を紹介して、 干支なく不明なものの、正仲の事例に倣って應仁の異字だろう、 と述べています。 >>63 心は人人 (明朝体) は少々バランス悪く、作字したものと思われます。

[96] >>61>>68 は報告に違いが多いので、それぞれ独立の観察に基づくと推測されます。


[71] , の史料集は、 古河市板碑を詳しく紹介しているものですが、 >>15 と思われるものは収録されていません。 応仁に近い時期で東林寺所在は応仁2年と文明2年だけです。 >>70, >>73

[88] なお、 >>58 には「大山村集寺」の板碑を多数紹介していますが、 >>70 >>73 に掲載される古河市大山東林寺板碑とは一部同じと思われるものがありながら、 それぞれだけにしか掲載がないものも多いです。 >>15>>58 固有のものの1つです。このあたりの事情は不明です。

[89] 従って現況は不明とせざるを得ません。

その他

[36] 美術史 16(1)(61);1966・6, 美術史學會, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/12530182/1/8?keyword=%E5%BF%9C%E4%BB%BB (要登録)

[37] >>36

万里橋図 応任元1467年竜賝賛 静 喜 堂蔵

(明朝体)

(題名のみ掲載)


[38] 吉備叢書 第4巻 美作古城記, 小橋藻三衛, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/766140/1/8?keyword=%E5%BF%9C%E4%BB%BB

應任元年

[47] 福島県郡誌集成 第1 (信夫郡小誌・伊達郡誌), 福島県史料叢書刊行会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/3008907/1/80?keyword=%E5%BF%9C%E4%BB%BB (要登録)

応任二年

[39] 太田道灌 別巻 1 (太田道灌雄飛録), 沢八郎 訳, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/12553370/1/24?keyword=%E5%BF%9C%E4%BB%BB (要登録)

応任元年 応任ノ乱

[40] 行政区画町界町名地番整理実務, 都市整備研究会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/3033812/1/61?keyword=%E5%BF%9C%E4%BB%BB (要登録)

応任元年

[42] 水野勝成公支干祭記念誌 第7回, 第七回支干祭実行委員会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/12196829/1/20?keyword=%E5%BF%9C%E4%BB%BB (要登録)

応任元年

[41] 日本の旅, 大西善三郎, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/12278655/1/70?keyword=%E5%BF%9C%E4%BB%BB (要登録)

応任元年

[43] 防府市史 上巻, 御薗生翁甫, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/3034993/1/215?keyword=%E5%BF%9C%E4%BB%BB (要登録)

応任元年

[28] 大沢野町誌 上巻, 大沢野町誌編纂委員会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/3009142/1/21?keyword=%E5%BF%9C%E4%BB%BB (要登録)

一、応任乱後の争乱と新川、婦負両郡/p15

[33] >>28 本文では「応仁乱」 (明朝体) であり、国立国会図書館目次データの誤記。

[34] 鳥取市史, 鳥取市, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9574358/1/79?keyword=%E5%BF%9C%E4%BB%BB (要登録)

第三節 應任亂に於ける柳原卿の百谷落/113

[35] >>34 本文では 「應仁亂」 (ゴシック体) であり、国立国会図書館目次データの誤記。

[72] ネプリーグ ファイブツアーズ 全問題集 その43 | 丹羽勝弘 ファイブツアーズ, 丹羽勝弘, , https://ameblo.jp/fivetours2006/entry-12874909839.html

1467年「おうにんのらん」

応任の乱

[74] 足利学校さまさま祭り!, 塚原株式会社, , https://www.tsukahara-tx.co.jp/information/38 (Google検索などでかつて存在したことを確認できるが、現存せず Internet Archive にも所蔵なし )

足利学校は、応任の乱以降、引き続く戦乱の中、学問の灯を絶やすことなくともし続け、生徒三千といわれるほどに隆盛し、天文(1549)にはフランシスコ・ザビエルにより ...

[75] うきはしさんの中村城跡のクチコミ - 中村城跡のクチコミ - じゃらんnet, うきはし, 投稿日:2009年1月1日, https://www.jalan.net/kankou/spt_39207af2120008916/kuchikomi/0000019461/

しかし、京都のお公家さんが、応任の乱からここまで逃げ延びて、

[76] 輪行を含む京都観光Ⅱ - 京都の中古自転車・新車販売 サイクルショップ エイリン, shijo, スタッフK, 2009.08.13, https://www.cycle-eirin.com/%E6%9C%AA%E5%88%86%E9%A1%9E-ja/2415.html

北大路通りまで南下して西に向かいます、途中、一休さん縁の大徳寺(大徳寺納豆発祥地)、応任の乱勃発地の船岡山城蹟があります(^.^)b

[77] 歴史的速報 : 室町幕府一の名君は足利義教, http://blog.livedoor.jp/waruneko00326-002/archives/25994498.html

33: 日本@名無史さん 2008/11/08 17:23:29

義教が足利義満の次代なら派閥闘争に発展するほど

取り巻きが強大化することもなく

応任の乱などは起こらず日本史も変わっていたかもな

[78] 日本史上最大の内戦はなんだと思いますか? - 『戦闘の規模』と『後世... - Yahoo!知恵袋, LY Corporation, https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14136089574

tmh********さん

2014/9/27 7:41

2位応任の乱

[79] 城下町~高梁(たかはし)頼久禅寺 - まーちゃんの旅日記, tanadanopapa (棚田のパパ), 2009/08/06, https://rann423no9.blog.fc2.com/blog-entry-90.html

a/応任の乱後上野信孝が守護代としてやってきた、その子の頼久は足利尊氏時代の安国寺を再建して政務をとり頼久禅寺と改名した。

[80] 短刀 銘 兼盛, 三明貿易・美術部刀剣徳川, , https://sanmei.com/contents/media/K50291_T3690_PUP.html

室町期後半に入ると、足利幕府の弱体化に伴う政情不安から応任の乱(1467~77)に端を発する戦国動乱の時代となり、利器としての日本刀の需要が急速に高まる。

[81] 足利義政と日野富子 : 夫婦で担った室町将軍家 田端 泰子(著) - 山川出版社 | 版元ドットコム, https://www.hanmoto.com/bd/isbn/9784634548404

初版年月日 2011年7月

登録日 2019年8月26日

最終更新日 2019年8月26日

紹介

日野重子の死後、日野富子は義政の正室として政治や文化の舞台に登場し、応任の乱中・乱後の混乱期に義政と役割を分担しつつ政権を担う。

[82] 石の庭 | 放送ライブラリー公式ページ, 放送番組センター, https://www.bpcj.or.jp/program/detail/000080/

概要

龍安寺石庭にまつわる兄弟愛と、封建社会の階級制をえぐりだしたドラマ。室町時代、応任の乱後の京都を舞台に、時の執政細川政之が寄進した龍安寺石庭の建設に従った身分の低い二人の若い庭師の生き方と、時代の悲劇の象徴である高貴な女性の不幸を描く。

[83] 【土御門史跡】アクセス・営業時間・料金情報 - じゃらんnet, https://www.jalan.net/kankou/spt_18462af2170017946/?screenId=OUW1701

日本暦学の祖である安倍(土御門)家一族が応任の乱を避けて約90年間在住の史跡。

時代 1513

[84] 中等日本歴史教科書 巻下(大正12年発行) | 昭和館デジタルアーカイブ, https://search.showakan.go.jp/search/book/detail.php?material_cord=060007304

第十三章 應任の亂

諸説

[98] 研究史上、言及は何度かされているものの、本格的な議論はほとんどありません。

[99] 用例は膨大というほどではありませんが、少なからず見られます。そのほとんどは、 近現代に字形の類似のために誤植等単純な誤りで生じた可能性が高いと考えられるものです。 近現代のものであっても、前代の資料に由来する可能性が否定できないものも一部あって、 調査を要します。

[100] 同時代的な用例が高いと確認できるのは、現状1例 (応任2年 >>12) のみです。

[101] 応任8年 >>15 用例も知られていますが、検討を要します。 >>15 は実物が現所在不明であり (>>89)、写真や拓本も知られていません。 文献によって判読銘文が異なり (>>94)、判読不能箇所もあります (>>95)。

[102] いずれの判読でも応任8年とされていますが、応仁8年だとすると5年の延長年号です (>>97)。 改元日からあまりに離れており、説明を要します。しかも同地には文明2年の板碑があることが、 同時報告 >>58 にも後年の応任8年板碑がない報告にも (>>71) あります。 従って、意図的延長年号利用説 (>>25) も改元伝達遅延説も、 そのまま素直に認めるのは難しいところです。

[104] 文字の選択についての議論もあるものの (>>26)、 現状では連想ゲーム的なこじつけの域を脱していないのが現状です。 そもそも確実な同時代的用例が1例しかなく、 未報告の用例や現存しない用例も存在した可能性はあるにせよ、 当時の書字環境なども含めて慎重に検討する必要があるでしょう。

研究史

[92] 昭和7年、 >>15 の事例が報告されました (>>61)。

[2] の書籍は、 板碑異年號とまではいかずとも普通の年號と少しく異なった文字を使う事例として、 應仁應任とするものがあるとし (他に延悳正仲)、 それらは文字の詮索を怠慢した結果だろうと述べています。 >>1


[91] 昭和33年、 >>12 の事例が報告されました (>>51)。


[30] 昭和9年の久保常晴の論文は、 異年号と思われながらも孤例のものとして >>15 を紹介しています。 >>900

[32] 出典の板碑概説説を支持して応仁であるとし、 他の公年号同音異字年号と同じ類としています。 >>900

[16] 昭和42年の 日本私年号の研究 は、 異年号のうち私年号でない同音異字年号として >>12 >>15 を紹介し、 次のように述べています。 >>11


[69] 板碑の書籍は、 私年号の解説において他のいくつかの事例と共に >>15 を簡単に取り上げ、 公年号応仁を表すとし、 公年号を誤ったか異字にそれほど違和感や正誤感を持たなかったための表記と思われる同音異字年号であって、 私年号からここでは除外する、 という扱いとしています。 >>251

関連

[45] >>44 かすれなのか印刷の具合なのか 「應任」 のようにも見えるが少し違和感あり、 国立国会図書館デジタルコレクションOCR も「應任」と認識しているのだが、 翻刻では応保干支年応保と一致する。

応曆

応曆 (日本)

延長年号

[4] 明応

[5] 八代郡竜北町野沢 毘沙門堂板碑 応仁三年十月吉日 >>29, >>6

応仁への改元

[103] 文正2年3月5日に改元

メモ