太靖

大靖

[11] (たい) (せい) y~798 は、 台湾で発生した反乱大靖政権元号でした。

[13] 明治30(1897)年大日本帝国台湾在住漢民族黄国鎮ら武装集団は、 大日本帝国台湾嘉義東堡を根拠地としました。 黄国鎮皇帝と称しました。 >>3 この大靖政権は、 元号として大靖を使いました >>2, >>3

元号名

[12] Wikipedia は、 読み方を 「たいせい」 としました >>2。 根拠は不明です。

[32] ではなくと表記する例がままあります >>4, >>5, >>37大と太は歴史的に通用するとはいえ、 当時実際どう扱われていたのか不明です。 「太」と表記するものは記載内容が似ており、同系統の出典に由来するとも思われます。

[6] 臺灣民主國研究 - 黃昭堂, Yuzin Chiautong Ng - Google ブックス, 2006, https://books.google.co.jp/books?hl=ja&id=pjiBAAAAIAAJ&dq=%22%E5%A4%AA%E9%9D%96%22

235 ページ

... 不能謂這期間的台灣是獨立的。[ 5 ]其後的叛亂也常嘗試建立王朝。例如一八六二 年(清同治元年)至翌年之間的叛亂,有戴萬生稱為東王,其同黨林慧最自命為南王。一 八三二年(清道光十三年)的叛亂,則有張內自封為開國大元帥,並改年號為天運」。

244 ページ

一八九六年(明治二十九年)至九八年之間,佔據雲林鐵國山(大坪頂)頑強展開抵抗的柯 鐵,將一八九六年改元為「天運元年」。從改換年號來看,可說是以台灣獨立為目標, 但未承襲台灣民主國年號「永清」, 可見 並非台灣民主國之恢復,或是台灣民主國運動的延長。一八九七年(明治三十年) ,嘉義 發生了武力抗日運動,住民立黃國鎮為「皇帝」,將年號定為「太靖」;一九一二年( ...

[37] 本日 十月十日、(台湾総督府)始政四十年記念博覧会から七十九年 - 台湾建国応援団, mumeijin, 2014-10-10, http://ilha-formosa.org/?p=33851

1896年(明治29)、雲林の人・柯鉄「天運元年」を定め抵抗を続ける

1897年(明治30)、嘉義で黄国鎮という人物を「皇帝」に擁立、「太靖」と改元

紀年法

[14] 元年は、日本明治30(1897)年です。 >>2, >>37, >>6, >>39

[15] Wikipedia は開始を西暦1897年1月としました。 >>2, >>39 大靖政権の開始とする時期と同じであり >>3, >>1, >>18, >>10、 それが根拠と思われます。 皇帝即位と元号制定がその1月だとする書籍があります >>40

[41] Wikipedia 中文版は西暦1897年としか書きませんでした >>19

[33]光緒二十二年十二月(一八九七年一月)」 とするものもありました。 >>5

[43] 更に遡ってから勢力を拡大し、 皇帝に即位して建元したとする書籍もあります。 >>41 いったん7月に日本軍に駆逐されて逃亡したのであり >>18、 どの時点で即位・建元したのかは検討が必要でしょう。

[21] 大靖政権が使っていたのは清暦 (農暦) でしょうか、それとも日本の暦 (グレゴリオ暦) でしょうか。 ちょうど年始なので元年がずれ兼ねませんが...

[34] また、6月28日に改元が発出されたとされます >>8。 「大靖元年六月 日」 >>38 または 「大靖元年六月日」 >>8 付文書があるようです。 1月から6月まではまだ建元していなかったのでしょうか。 6月28日が農暦 (明治30(光緒23)年6月28日) かグレゴリオ暦 () かは不明です。


[16] Wikipedia は2年までとし、 終了をとしました。 >>2 大靖政権の終了とする時期と同じであり >>3, >>1, >>18, >>10、 それが根拠と思われます。

[20] 皇帝黄国鎮が篭城を断念したのがとされます >>3。 それを終了とするものもあります >>39

[30] 実際元号が使われたのがいつからいつまでかは不明です。 とは日本軍の掃討により政権が支配地域を喪失した日で、 それ以後は根拠地の山中に篭城していたようです >>10

[7] 日本統治下の台湾: 抵抗と弾圧 - 許世楷 - Google ブックス, 1972, https://books.google.co.jp/books?hl=ja&id=htQLAAAAIAAJ&dq=%22%E5%A4%A7%E9%9D%96%22

120 ページ

そして「天運」の年号を定め、大平頂を「鉄国山」と改称して全島に檄をとばし 、日本人を台湾より駆逐することをよびかけた。これが雲林地方における鉄国山 抗日軍の産声であった( 4 )。ここにおいて、十六日、日本軍一連隊が斗六へ討伐 に ...

123 ページ

軍日軍はさらに河鉄を首領に擁し、柯は、依然として「天運」の年号を用い、 自ら「奉天征倭鎮守台湾鉄国山総統各路第義勇」と称し、その目的は日本軍を 駆逐して台湾を回復し住民を救助するにあることを掲げ第3章 統治確立過程 における ...

125 ページ

... (一八九六年十二月十九七年1月)に、ふたたび活動をはじめ、一八九七年一月頃 には、嘉義東堡の四十九圧をその勢力下に収め、租税を徴収し、同地の総理・庄 長らをもその配下にしたがえるほどの勢力を築きあげ、黄は皇帝を称し、年号を「大靖」と定めた 。

128 ページ

さてこれら抗日軍の成立の端緒を見ると、たとえば簡義が「九千歳」、河鉄らが 「十七大王」と称し、「天運」の年 号を定めたことからも察せられるように、 この地における「覇業」の樹立を目指したものであった。また黄国鎮らが「 第1 部 ...

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号を定めたことからも察せられるように、この地における「覇業」の樹立を 目指したものであった。また黄国鎮らが「十二虎」と称して義兄弟 ... そして黄も 結局皇帝を称し、年号を定めるにいたっている。さらに陳発が蕃仔山に拠った こと、 ...

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大靖」年母在用八大因檄文(前揭『抗日篇』六四頁)。( a )前揭『警察沿革誌』第二 編、上卷、四八四四八五頁。前揭「憲兵隊史」三二六十三三三頁。( % )前揭「 警察沿革誌』第二編、上卷、四八九頁。前揭『抗日篇』六五頁。( % )前揭『台湾 治 ...

[8] 台灣紀事: 台灣歷史上的今天 - 莊永明 - Google ブックス, 1989, https://books.google.co.jp/books?id=J8l-AAAAIAAJ&q=%22%E5%A4%A7%E9%9D%96%22

634 ページ

台灣歷史上的今天 莊永明 大靖元年六月日御前張福德孫阮李烏貓涂生李欺頭」「 日本逞豪雄,台灣亂一場。我等經百戰,攻城姓名揚。今共尊黃國,稱帝百年昌,封收票 谷糧。你等勿建抗,身首免分開。開誠以布告,欽哉言已詳。黃國鎮雖為日軍追緝, ... 黃國鎮竟以為自己有擁民自立的本錢,乃以「大靖」為改元年號。一八九七年今日, 義軍於嘉義城內外,散布左錄文告,一夜之間,傳布嘉南:大平頂「鐵國山」義軍攻克雲 林,給予黃國鎮不少鼓舞,他會同李烏貓等飛檄四方英雄,決定發動驚人一擊,與「雲林 之 ...

1092 ページ

(六月二十八日)嘉南十二虎抗日,黃國鎮以「大靖」為改元年號,發布文告。(七月二十 八日)乃木希典受命為台灣總督。(十月十四日) .一八九七年日人為推行「國(日)語 教育」,假芝山巖惠濟宮設「國(日)語傳習民地」。(二月三日)台灣當局向日本帝國 議會 ...

標準時

[22] Wikipedia大靖政権標準時 としました >>1。 根拠は不明です。

[23] 台湾だから と機械的に書かれただけとも思われます。 一応既に西部標準時制定 () 後ですが、 この当時の台湾で山賊的な反乱軍にまで近代的標準時制度が浸透していたとは考えにくいです。

評価

[24] Wikipedia私年号としました >>2, >>3, >>18。 反乱の非正統政権の元号ゆえでしょうか。

[27] Wikipedia台湾の元号の一覧表の日本統治時代欄に掲載しました。 >>25, >>26

[28] 日本の私年号のリストに掲載された例は見たことがありません。

[29] 類例の永清に比べてマイナーなようです。

[31] 台湾の元号の事例として、 永清のついでに天運大靖が紹介される場合が多いようです >>4

[35] Seikai ōrai - Google ブックス, 1979, https://books.google.co.jp/books?id=pP9CAQAAIAAJ&q=%E5%B9%B4%E5%8F%B7

127 ページ

... 七大王」この後も彼らは山中に陣を張り、日本軍は直した日本軍にジリジリと 押され、七月の十と称し、さらに「天運」の年号を決めたこと再三再四の討伐を 山中に敢行したが容易に果日前後には他里務や大雨林などほとんどの拠からも 察せ ...

160 ページ

定期を迎えるまでのおよそ二十年間に亘る、動乱の物語である簡義といえば、桂 総督時代に蜂起し 下に入った以上、? )であり、彼ら ... を回復」せんと宣言し、 「天運」の年号をそ義らの大物が応じ、日本軍に投降 してきはしである。大頭目の投降ではあっても、彼らにとっては鉄の方が適任で あったのかも知れない。ここ[中・南部抗日軍再編かの鉄国山抗日軍の頭目である 。

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この時期が台湾人ふたたび山中に踏み込んだ日本軍は苦戦しながらも、その後数 日にわたって前林- P峠~土庫扇炎・ より深山にこもって時を待つ人とならねばな 雲林の頭目・河鉄を受け入れた温水溪の頭,そこで黄は、自ら皇帝を称し、年号を ...

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より深山にこもって時を待つ人とならねばな雲林の頭目・河鉄を受け入れた温水 溪の頭,そこで黄は、自ら皇帝を称し、年号を「目・黄国鎮にも迂余曲折はあった いま住む澎湖島ち日本領土となり島の清朝官昨年八月の蜂起に失敗した鄭吉生 ...

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... 戦を発動し、温水渓では黄国鎮が皇さて、頃、ここ北部でも抗日軍による治安 攪乱は日この時はすでに「雲林の虐殺」の後で、日本これによって金・石炭・ 硫黄等の鉱業で生常化しつつあった。ある。ちょうど、雲林の河鉄が「天運」の 年号 ...

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てんそく帝を称して年号を「大靖」と定め、鳳山では植民地のこの種政策 に関して、後の東大総また、これの禁止が立法化されたのち次期指導者が鄭吉成 から林少猫へと変っていた頃。長・矢内原忠雄博士はその著書「植民及植民の 児玉総督の ...

[9] 台湾人四百年史: 漢文版 - 史明 - Google ブックス, 1980, https://books.google.co.jp/books?hl=ja&id=sVIfAQAAMAAJ&focus=searchwithinvolume&q=%E5%A4%A7%E9%9D%96

422 ページ

日审大部份的成具、皆是震民、平畴在家耕田穗地、一旦有警即拿起棺焊而戴。黄 国镇等待所率抗日势力壮大之俊、乃改元 T 大靖、普自稻益皇帝、释常率领抗日袭 民审出整松嘉美地方、竟使日方各地的惠兵警察一圈警载、莫不整忧失措而忙松储 ...

[4] 臺灣文獻 - Google ブックス, 1988, https://books.google.co.jp/books?id=OIsLAAAAIAAJ&q=%22%E5%A4%AA%E9%9D%96%22

57 ページ

文告,闡明建號永清,意在不忘大清;並願「恭奉正朔,遙「當時,張之洞對臺灣紳民的 尋求外援雖極力相助,但對作屏藩」。其文告全文如下:臺民级促地借用西方的「民主 」、「自立」和「總統」等名臺灣民主國總統前署臺灣巡撫布政使唐為曉論事:目, ...

58 ページ

刑部主事俞明震為督辦,禮部主事李秉瑞、副將陳季同為會辦,主管內政事務,不置 專員;下設善後總局臺灣清內政,結外援,廣利源,除陋習,鐵路、兵船次第籌辦,富强可致,雄峙東南,未嘗非臺民之幸也。特此曉諭全臺知之。永清元年五月日臺灣紳民在內外 ...

132 ページ

翌年五月,簡精華九六年六月)起而抗日,改元「天運元年」。其改元保模仿率眾襲擊 鹿港,阻斷南北交通;九月,詹振攻擊臺北近郊的「臺灣民主國」的年號「永清」,可說 是「臺灣民主國」抗錫口、南港;十月,鄭吉生、柯 ... 根據馬關條「太靖」,正式稱帝。他如民國元年五月「土庫事件」的領約第五款的 規定:「本約批准互換之後,限二年之內,日本袖黄朝自稱「臺灣國王」,民國三年五月 「六甲事件」的首准中國讓與地方人民願遷居讓與地方之外者,任便變賣所有領羅臭 頭 ...

[36] 中日甲午战争全史 - Google ブックス, 2005, https://books.google.co.jp/books?id=eVBKAQAAIAAJ&q=%E6%94%B9%E5%85%83

193 ページ

开辟抗日基地,改元大靖,自称皇帝,经常袭击嘉义日军。当年 8 月 12 日,面对台南 日军大规模扫荡,利用险要地形与敌周旋,冲出重围。 1898 年 5 月,联合郭金水、林 添丁等,袭击北港埔姜琉等地的警察派出所。 9 月,与林添丁各率 1000 人合攻嘉义东 保三 ...

229 ページ

25 日,义军正式树起铁国旗,柯铁被推为首领,称“九千岁” ,改元天运元年。日军连遭 挫败,对云林各村群众进行残酷报复,大肆屠杀,杀害群众 3 万余人。为解救群众的 危难,严惩日军,柯铁从大坪顶义军队员中挑选 300 人, 10 人一小队, 50 人一大队,共 6 个 ...

342 ページ 初闻清廷配酿割台之说后,丘逢甲愤刺手指,以血书成“拒倭守土” 4 个字,以号召乡里; 四处奔走,筹集经费,并“倾家财以为兵饷” ... 25 日以清朝为正朔的“台湾民主国”成立, 推台湾巡抚唐景崧为总统,国号“永清” ,以示“永戴圣清” ,丘逢甲自任副总统兼大将军、 “ ...

428 ページ

25 日“台湾民主国”在台北宣告正式成立,国号“永清” ,以示永远属于清朝之意。以蓝 地黄虎图案为国旗。在台北设议院。在成立大典当天,唐景崧致电清廷报告就任情形: “台民闻割台后,冀有转机,未敢妄动。今已绝望,公议自立为民主之国,于五月初二日( ...

関連

[17] Wikipedia は、 台湾独自の最後の元号としました。 >>2, >>3 しかし、 数え方次第ですが、 天運の方が後ともいえます。

メモ