[19] 元暦 (旧字体: 元曆) は、日本の元号の1種です。
[29] 元暦2年 (= ) の1月の用例が知られています。
[27] 用例は1件報告されています。
[4] 日本国石川県能美郡辰口町 (平成の大合併により能美市。江戸時代は加賀藩領。) の静照寺の過去帳に、 「元暦二年」 の年号があります。 >>1
[5] 静照寺文書は町史に翻刻収録されていますが、 残念ながら当該過去帳は除外されています >>1 /591。 そのかわりに当該過去帳の一部分のみの白黒写真が掲載されています >>1 /461。 写真は過去帳の天保13年から14年の部分の一部を写していて、 国会図書館デジタル で閲覧できるものは細かい点がやや見づらいものの、 写っている部分のおおよその文字は読み取れます。
[2] その写真によると、天保13(1842)年壬寅12月の11日(?)までは天保13年で、 その次が元暦二年癸夘正月三日、 そこから正月廿七日までが元暦二年、 その次が天保十四年癸夘二月廿日で、以後天保14年が続きます。 >>1 /461
[6]
興味深いのは、「元暦二年」部分は別筆なのか、少し書き方に違いがあります。
最もわかりやすいのは法
で、異体字の㳒
が使われています。
天保14年に入ると元の筆跡に戻っています。
[11] 辰口町史 はこの地域の文書を収録していて、 編纂時にこの地域に伝わる文書をある程度網羅的に調査したのでしょうが、 少なくても本書中に他に元暦の用例はありません。 もし当時の調査で発見されていればそれも関連付けて紹介しているでしょうから、 時点では他に発見されていないと思われます。
[12] その後や他地域での用例も知られていません。 ただ、「元暦」は公年号の用例が多くて、 検索で埋もれている発見報告がないとも限りません。
[13]
天保年間には他にもいくつも私年号が発生しています。
また、江戸時代の私年号は加賀藩領を含む石川県域の報告例がいくつもあります。
[9] 辰口町史は、 加賀藩の天保の改革が逼塞していて、その指導者が平氏を称しているため、 平家滅亡のを「ひそかに」 使ったのは明確な藩政批判と見なしていいとしています。 >>1 /22
[3] また、辰口町史は、 明和年間 (18世紀) のこの地域の仏教界の騒動について、 静照寺の動向は不明なものの、 に平氏時代の公年号を私年号として使っているような反体制的な姿勢があったから、 明和の頃もそうだっただろうと、 説明しています。 >>1 /165
[8]
しかし、19世紀の無関係の史料を「反体制」の1点だけで18世紀の態度の推測に使うのは、
さすがに無理があるように思われます。
しかもその「反体制」の根拠が「公年号を私年号として使う」
という聞いたこともない新概念 (
[20] 他で報告のない初出の私年号は貴重な文化遺産で、そのために1節割いてもよさそうなものなのですが、 その認識がないのか、話の流れでこの程度に簡単に触れるに留まっています。 (といっても全文未掲載の過去帳をこの一部分だけわざわざ写真掲載しているのですから、 もしかして重要史料なのでは、という思いもあったのかもしれません。)
[25] 辰口町史 以外の言及は見当たりません。 令和時代に至るまで私年号研究の方面では見落とされていました。
[30] 筆跡の変化との関係は今後更に検討が必要でしょう。
[31] 改元デマから生じた私年号との類似性も感じられ、検討が必要です。
[15] 天保15年暦 (天保14年発行) には、天保暦の改暦の旨が
遂に天保十三年新暦成に及び 詔して名を天保壬寅元暦と賜う
と書かれていました。 >>14 天保13年壬寅の新暦なので天保壬寅元暦と名付けられたということです。
[16] もしこれが天保壬寅に元暦と改元したと誤解されたとすると、 天保13年が元暦元年、天保14年が元暦2年となります。 正月に突然「元暦二年」が使われ始めたのも、 新年の暦の伝達と関係していたと理由を説明できます。
[17] ただ、過去帳はほぼリアルタイムで書いているでしょうから、 仮にこの推測が正しいとしても、誤解の発生源は天保15年暦ではありません。 天保14年暦はまだ改暦前なので、この説明文はありません。
[34] 天保8年には加賀の一部で永長の私年号が使われました。
[32]
翌年にあたるには江戸で改元デマ事案がありました。
[33] 世情が不安定化していることの反映とみることもできますが、ただ、 嘉政の改元デマは公年号の弘化度の改元に誘発されたもので、 この改元は天保15年の江戸城の火災を事由としているので、 時系列からも地理的・当事者層の違いからも、直接的な関係をみることは難しいといえます。