[51] 日本相馬藩が安政4年から明治4年にかけて編纂した地誌 奥相志 の日本陸奥国行方郡牛越村 (明治時代の日本国福島県下磐城国相馬郡牛越村, 昭和の大合併後は日本国福島県原町市, 平成の大合併後は日本国福島県南相馬市) 条に、
釈迦堂方三間 館下山の中央泉竜寺境内跡に在り。
古記に曰く、右は遠古徳尼御と称する人の開基なり。 釈迦の像の胸中に徳尼菩提の為めに造立す、享正三年 乙未六月晦日と銘あり 享正の年号は伝写の誤りか、考知せ ず。徳尼御は奥州岩城の領主海東小太郎平成衡の後 室、源頼義の女、母は多気権守宗基の女なり。前九年 の戦に奥州に生る。後三年の戦に源義家義子と為し亘 権守清衡に頂く。 徳尼御百廿余歳の寿を保ち右大将頼朝と恒に音信 を通ず。是より先、頼朝伊豆に在り。時に徳尼百余歳 自筆の寿量品所望の事伊豆日記に見ゆ。或は記する に、尼御を以て秀衡の妹と為すは誤りなり。
とあります。 >>48
[53] 明治3年に牛越の白王山泉竜寺は新田村 (日本陸奥国行方郡北新田村, 平成の大合併で日本国福島県南相馬市) の新田山新善光寺と合寺し、 北新田村に所在する新田山泉竜寺となりました。 釈迦堂も移されました。 >>52
[64] 銘文の有る釈迦像は 奥相志 以後どうなったのか記録が見当たりません。 時点で釈迦堂に釈迦像が現存するようで >>56、 これがそれと考えていいのでしょうか。
[70] この享正については、これまで比定年等の説が提唱された記録が見当たりません。
[58] 徳尼と呼ばれる人物については東北地方の各地に、 少しずつ違う伝承があるようです。 >>57 百歳を超えたという点も含め、現在に伝わるこれらの伝承の史実性は低そうに思われます。
[59] 奥相志が採集した当地の伝承では徳尼は前九年の役 ( - ) の時の生まれとあります。 父は前九年の役に参戦した源頼義とされていますが、 生年は、一説、 没年は、一説です >>60。
[61] 当地の伝承では徳尼の没年齢が120歳あまりとされています。 数え年で [120, 129] 歳とすると、没年は [ , ] の範囲ということになります。 前九年の役と源頼朝の両方に縁があると設定したために、 かくも無理な寿命となってしまったのでしょう。
[62] さて、銘文を信じると乙未年に菩提のため造像したとのことで、 一応没年からそれほど離れていないとすると
などが候補となります。がちょうど没年想定範囲に入っています。
[63] しかし奥相志の筆者が注釈した通り、これらに (そしてこれの前後の他の乙未年にも) 「享正」という元号はありませんし、それと誤りそうな他の元号もありません。 既知の私年号の享正とは干支があいませんし、時代がまったく異なります。
[65] この種の説話に出てくるいつかわからない謎元号は他にも長本など例があります。 時期は一応わかるものの史実性の疑わしい東北地方の説話に頻出する元号は大同があります。
[69] 江戸時代末期から明治時代初期に編纂された 奥相志 は、 享正は不明であり誤伝か、と注釈しています。 >>51 調査時に公年号に該当するものがなく、 どう解釈するべきか決めかねたのでしょう。
[66] この「享正」は、令和時代に至るまで私年号研究分野では気づかれず見落とされてきました。
釈迦堂には、現在 弘法大師・釈迦如来・閻魔大王が安置されていますが 釈迦堂の本尊、釈迦如来は 詳しい縁起は残っていないものの 源頼義(998-1082)の娘、徳尼の開建と言い伝えられています。 また、当時の泉龍寺は今の場所とは違う「牛越」の地にあり 「白王山泉龍寺」という名前でした。