[1] ヤオ族 (瑶族) は、 中華人民共和国南部、 タイ、 ラオス、 越南などにまたがる地域に居住する民族です。 漢語や道教の強い影響を持った文化を持っています。 中華王朝の日時制度に基づいた、 しかし独自性もある日時制度や暦文化が見られます。
[12] >>168 などに道教系の祭祀で使われる祭文等がありますが、 暦日や暦注などの記述も含まれます。
[13] 漢人の民間で流布している暦書や道教で使われるようなものの類でしょうか。
[14] 基本的には干支年、農暦、十二支時刻が日時記述に使われているようです。
[2] 清の元号, 中華民国, 民国の前に紀年接頭辞皇上が付くことがしばしばあるようです。
[3]
皇明や皇清のような「皇」を使った尊称と同類のものと思われます。
[16] 上皇、皇號のような例もあります。
[8] 「皇上大漢中華民国廿八年」のような盛り盛りのものもあります。
[18] 「皇上民國管下五十一年」 「皇上中華民國官下四九年」 のように民国と年数の間に管下と入る例があります。
[24] ヤオ族関係かわかりませんが、 「皇上民國中華丁卯歲」 と書いた例もあります。
[4] Google検索で見つかる皇上の用例はヤオ族関係か、 東南アジア北部で発見されたものばかりです。 ヤオ族独特の表現なのかもしれません。 (が見つけにくいだけで漢人も使う表現かもしれません。)
[5] こうした表現は現在の中華人民共和国の域外の東南アジア各国領土の文書にも見られます。 その中には広西や雲南の地名を伴ったものもあれば、 そうでないものもあります。 中国から持ち込まれたものもあれば、中には東南アジア地域で使われたものもあると考えられます。
[7] 中華人民共和国成立後かなり経過した後でも民国紀元を使ったものもあります。 中華人民共和国南部の地名を伴ったものもあります。
[168] 神奈川大学歴民調査報告第17集 - rekimin17.pdf, , https://www.yaoken.org/data-room/data/rekimin17.pdf#page=19
#page=19
広西省 中華民国41年
#page=26
在廣西來泰国地坊 / 民國陸拾貳年癸丑歳拾壹月貳肆日
#page=29
民国陸拾貮年癸丑歳久月拾捌日抄成壹本留下傳救人民吉
#page=158
民国戊辰年正月十九日武漢白崇禧折廃龍宝塔内現
#page=25
皇上民國△年△月△日
#page=28
皇上△年△月△日
#page=39
皇上咸豊八年戊午歳拾月 / 拾一日依●抄成掛燈● / 壹本書内謹記●
#page=41
皇上民国伍四年乙巳歳五月初三日(鉛筆書き)
#page=43
乙巳歳九月二十八日抄 /1965/1965/ 生人辛亥歳八月三十日 / 李如財記号 / 李如財の状況の記述 / 李如財 / 文陸張 成財 / 雲南 / 廣東 / 民國伍十五年丙午歳三月二十日 / 張成財 / 民国五十伍年丙午歳一九四二年丁未歳四月廿六日 完 了 /1968 丁未歳 /1967/ 成財乙巳歳 / 皇上民國六十年 / 中華民國五十伍年 / 馮文財 / 皇上民國五十六年 / 皇上 民國五十四年 / 上金寅時乙亥年
#page=47
李如財 / 皇上民國六十年辛亥歳七月十八日回成一本家先 / 李如財
#page=86
民国廿七年戊戌歳四月二十二日戌時 / 皇上大漢中華民国廿八年己卯年三月初八日元(完)筆了 / 廣西道柳州府 / 雲南道開花府 / 臨安府 / 城東州 / 猛〔口竜〕府 / 安南道猛〔口竜〕府
#page=111
明朝出世(意者書中)/ 大清南掌国 / 皇上忠華民国八年己未歳四月六日抄成
[170] 1646635667.pdf, , https://cfro.sysu.edu.cn/BmUploadFile/news/1646635667.pdf#page=6
首先,何红一教授指出海外学者因缺乏中国文化
常识,对文献进行年代考释时容易发生错误。《瑶族 文书》标注了抄本出现的日期与对应页码,并用括号 补 充 说 明 该 日 期 对 应 的 公 元 纪 年 , 例 如 “ 日 期 (fol.19b):皇上民國管下五十一年任寅歲七月十三 日(1962 年)”。瑶族文献的纪年方式非常复杂,通 常是帝王年号纪年法、民国纪年法以及干支纪年法等 多种纪年方法兼用。此外,在年头和年尾的相交处, 旧历与公历间的换算有约 1-2 个月的时间差,如果遇 到抄本在十一、十二月的题款,转换为公历需要推迟 到次年年头。新旧历的换算对中国学者来讲可能没有 太大问题,但是对不熟悉中国文化的海外学者则存在 一定难度,《瑶族文书》对年尾时间的换算就存在大 量错误。
[17] 紀年が複雑なので外国の研究者は間違いやすい、と。
[171] Handschriften der Yao - Google ブックス, https://books.google.co.jp/books?id=Y0J7ln-b4SkC&pg=PA75&lpg=PA75&dq=%22%E7%9A%87%E4%B8%8A%E6%B0%91%E5%9C%8B%22
Da han zhong hua mio guo nian si nian ci
yi hai sui ba yue chu jiu ri (xie) 大漢中華民國廿四年次乙亥歲八󠄂月初九日(寫) (9. Tag des 8. Monats, yihai-Jahr, 24. Jahr der Republik China, 1935).
Huang shang min guo san shi
ba nian ji chou sui er yue shi jiu ri 皇上民國三十八󠄂年己丑歲二月十九日 (19. Tag des 2. Monats jichou-Jahr, 38. Jahr der Republik China, 1949);
p.59 上皇民國三十四年丙戌歲七月
p.70 皇上中華民國官下四九年庚子歲
p.457 皇號咸豐四年秋季月上旬念二日 () 太歲癸味年三月十四日 ()
p.576 下元太歲己未年十月十五日 () 大清下元咸豐玖年歲次己未孟冬月中旬望五日 ()
他ページにもあり
p.645 洞治七年戊辰歲九月廿四日 1868
[172] 牛津大學圖書館藏瑤族道教經典考述 - 壹讀, https://read01.com/zh-mo/4ANNA8.html#.ZEiR1q3P1PY
這批文獻的很多文本落有抄寫或謄錄時間,從中我們可以得知它們的「造作」時間主要為清代及民國時期。例如:S3403號文本封面題「正一初真授戒科」,並落有「雍正叄年乙巳歲五初四巳時起抄」字樣;S3513號文本封面題「水符科」,封底則落「乾隆壬子年四月抄完」字樣;S3427號文本封面題「大小齋用奏式」,內封又落「嘉慶十一年……錄抄存本」字樣;S3301號文本封面題「上梯雪山法書一卷」,封底則寫有「大清道光貳拾年六月二十日騰祿(謄錄)法書一本,內有二十篇止」字樣。又如:S3348號文本封面題「平追魂、赦用牒二紙供本在內」,並落「皇上民國五十三年甲辰歲二月抄」字樣;S3544號文本封面脫落,書末卻有「三宮二宮科完畢。書主盤經毫記號」、「大清中華民國丙辰歲七月冬畢」等字樣。需要說明的是,像這樣明確落有清代年號或民國紀年的文本,在這批文獻中有很多,這裏所舉不過是幾個簡單的例子。此外,可能是由於抄寫者的文化水平,這批文獻中存在著不少「錯別字」和常識性的錯誤,如上述S3301號文本的「騰祿」二字實應為「謄錄」,而S3348號文本的「皇上民國五十三年」及S3544號文本的「大清中華民國丙辰歲」等說法也屬於錯誤之表述,而這可能又與瑤族群體地處偏遠、不諳漢字寫法及內地政權興替有關。
除了清代的年號和民國的紀年之外,這批文獻中的一些文本還出現過其他朝代的字樣,如封面題「上梯雪山法書一卷」的S3301號文本中曾有「唐朝世間造流,後代念看」字樣。不過,這僅表明這種所謂的「上梯雪山法書」可能傳自唐朝,並不能說明該文本抄寫於唐代,也不代表這批文獻的主流。
[169] 帝母大會洪恩秘語壹本 | Endangered Archives Programme, https://eap.bl.uk/archive-file/EAP1126-1-19-3
ラオス北部 漢文
Date(s) claimed in the manuscript: 皇上民國中華丁卯歲壬申月癸酉朔甲午旬越至丙申龍上日頭抄定. Two plausible dates: 1927/1987.
[9] 「真观」 (貞観), 「洞治」 (同治), 「仲華」「皇上忠華民国」 (中華民国), 「任寅」 (壬寅), 「癸味」 (癸未) のような元号名や干支の異表記もあります。
[10]
異体字表記自体は漢人や他の民族・言語話者の元号表記にも見られますが、
ヤオ族の慣習や言語に由来するものもあったりするのでしょうか?
それともただの誤記に属するものでしょうか?
[11] 一貫して異表記という例はなさそうなので、偶発的な表記揺れなのでしょうかね。
[99] 漢文の読み書き能力が優れてない人々が伝承してきたと推測される >>39 ということなので、伝写の過程で似た字に転じていったのでしょう。
[113] 日本の古代年号の変遷とも通ずるところがありそうで興味をそそられます。 東北地方の秘伝書にも似たような奇妙な元号があります。 秘伝書の日時も参照。
[114] 宋の元号などは伝承されるうちに変化したのでしょうけど、 清の元号や中華民国は同時代のはずなのに間違えてしまうのが、 興味深い現象です。
[28] ヤオ族の歴史の記述には古い時代の中華王朝の元号も使われます。
[37] 1977_150.pdf, https://www.jstage.jst.go.jp/article/sea1971/1977/7/1977_7_150/_pdf/-char/ja#page=2
[27] d5cf20f0a6b68d7a3acf08f7ae8b1d8e.pdf, , http://kojiki.kokugakuin.ac.jp/wp-content/uploads/2017/12/d5cf20f0a6b68d7a3acf08f7ae8b1d8e.pdf#page=75
『評皇巻牒』は 、漢族が平地に居住しヤオ族が山地に居住する「棲み分け」を正統化し、相互の境界を設定すると
いうイデオロギーを垣間見せる。文書に記される最古の年号は唐の貞観二年 (六二八) であるが史実とは言えない。 最も多い年号は正忠景定元年 (一二六〇) で、南宋の理宗元年にあたる。清の康煕五三年 (一七一四) 正月重修など の表記もある﹇《過山榜》編輯組 一九八四﹈。文書の奥書の年号は宋代が多いが、大半は清朝以後の文書である。漢 族の支配者、つまり皇帝から賜与される証明書類と目されてきたが、実際はヤオ側が作成した偽文書であると推定さ れる。景定元年という年号の由来は、南宋の後期にあたり中国南方への漢族の展開に伴って、ヤオ族が大挙して移動 を開始した時期かもしれないが﹇饒宗頤 一九八七:一五八﹈、史料上で確定することはできない。皇帝の交代に合 わせての賜与という形式をとっている。 日付は中国の事例は同年十月二十一日が多く、現行の盤王節の祭日はこれに近づけたと思われる。ただし、四月八
日、十一月十一日、十二月十二日などもある。
(
62 ) タイの文書では、巻頭に「景定𰨓」とあり、「元年」という表記ではない。中国では「景定元年」と記載されたものが多い。
(明朝体)
[33] PowerPoint プレゼンテーション - lumien web.pdf, , https://rci.nanzan-u.ac.jp/museum/item/lumien%20web.pdf#page=4
本文冒頭の「正忠景定元年」と
は、1260年の南宋の皇帝・理宗の 治世をさします。
(明朝体)
正忠景定元十二月
十二 (別筆?) 日
(実物写真 楷書)
[34] 65_13.pdf, https://www.jstage.jst.go.jp/article/nihonbungaku/65/5/65_13/_pdf/-char/ja#page=9
『評皇券牒』類の年紀を総覧すると、「初平」「代随二年」
「大隋五年」「貞観弐年」「貞観三年」など前漢以来の年号 (実在し ないものも含む) がみえるが、やはり圧倒的に南宋「正忠景定元年」 (一二六〇) が多く、湖南・広西からタイにまで分布している (39) 。しかしそれ自体は恐らく神話的記号で、彼らに生存の危機をもたらし た一五〜一六世紀の大反乱こそ、同文書形式発生の契機だろう。
(明朝体)
[38] 【19-23】白鳥芳郎と日本のヤオ族研究(瑶学) | SciencePortal China, 国立研究開発法人 科学技術振興機構 中国総合研究・さくらサイエンスセンター, , https://spc.jst.go.jp/experiences/change/change_1923.html
白鳥芳郎がタイで収集した南宋正忠景定元年(1260)の漢文古籍『評皇券牒』(つまり『過山榜』)こそが、中央の官府がヤオ族に対して、湘南(湖南省南部)と桂北(広西チワン族自治区北部)での居住を許可して発行した遷徙特許状[7] であり、彼らに移動の途中で自由に山地を開墾することを許可するものであった。
[97] Wayback Machine, https://web.archive.org/web/20230228071200/http://mzwxyj.ajcass.org/Admin/UploadFile/Issue/3z51lbv0.pdf #page=2
瑶族《评皇券碟》述:“榜文付与瑶人,千年收执为 照。大隋二年五月十三日给。贞观二年岁次戊子孟春月望十五日,
中華人民共和国貴州省黔東南苗族侗族自治州従江県斗里郷台里村盤家所有過山榜
[70] 引用されている黄鈺 1988 というのは >>69 のこと。
[92] 瑶族研究论文集は他の年にも別編集者で発行されているので要注意。
[98] 过山榜选编:瑶族重要历史文献(中华大国学经典文库)pdf/doc/txt格式电子书下载|VS电子书, https://www.vsweibo.com/114718.html
初平□□□□(原文此处为方框)年五月十六日帖存照
原存:地址不明
现存:中央民族学院民族研究所
真(贞)观弍年岁次戊子孟春月望十五日
原存:湖南蓝山
现存:中央民族学院民族研究所
贞观三年岁次己丑孟秋月望十五日。
乾德五年丁卯岁盘久泰抄存
原存:湖南蓝山县汇源公社
现存:湖南民族研究所
(以)太子人孙,小名盘皇,平皇随代二年五月十三日,给文牒一道。
于真(贞)观二年内,蒙督府使金精先禄子子孙兵部尚书,敕对龙犬子孙,伏敕于在(代)财(才)五年五月十五日中夏节,十月十五日兴和节,
于开宝八年五月十三日出给下山功据帖榜,
代随二年五月十三日给
原存:湖南江华湘江公社
现存:湖南民族研究所
正(理)忠(宗)景定元年,十月二十一日,
[101] 「在(代)财(才)」は元号? 代随あたりの転訛?
[106] 全州历史钩沉:富贵落升乡的缘由, https://baijiahao.baidu.com/s?id=1650816349542784468&wfr=spider&for=pc
《评皇券牒》文中还有“正忠景定元祀十二月十二日,
[107] 萧霁虹 | 云南与东南亚的瑶族宗教文书_民族_道教_时期, https://history.sohu.com/a/609827956_121124720
这些文献年代最早的为清乾隆十九年(1754年),明确标明乾隆年间的经书有6本,还有嘉庆、道光、咸丰、同治、光绪、宣统和民国时期的经书,最晚的年代落款为“皇上民国管下七十六岁丁卯年三月初五日”,即1987年。4份“过山榜”虽然也标有“正忠景定元年十二月十二日”字样,但实际年代待考。
[108] 考察国外瑶族的分布变迁国外瑶族的迁徙现状_汉程民俗, https://minsu.httpcn.com/info/html/201774/PWPWKOTBTBRN.shtml
在一此瑶族家族中,到今还珍藏着我国南宋理宗正忠景定元年(1260)年颁布的“评皇券牒”(即过山榜)。
[109] 【探秘瑶都】异彩纷呈的瑶族始祖神话传说集趣, 李诗璇 韩开琪, , https://mp.weixin.qq.com/s?__biz=MzAxMzc3NDI5MQ==&mid=2651653226&idx=2&sn=20d14eeea43f22e580025013f13de5d3&chksm=8064d8d6b71351c0dfd6b0d654a337f187391c3961905122e1e18690f52b56ed98b3682417b7&scene=27
“《评皇券牒》正忠景定元年拾月二十一日,
景定元年十月二十一日。评皇券牒照验施行。”
[110] 《评皇券牒集编》(古本型)的形成和内容考辨--湖南科技学院图书馆-潇湘文化专题网, 湖南科技学院图书馆,技术部,Genius, http://lib.huse.cn/lzy/news_view.asp?newsid=10278
称谓“紫王”共15篇,多发自大隋一至五年,有明显的地域性,即江华和周边(蓝山、富川)县8篇(35、48、49、50、51、52、53、54),金秀4篇(37、40、41、43)及荔浦1篇(38)。来宾、融水各1篇(39、42)。凡有“紫王”的券牒是35、48、49、50、51、53、54、52、 37、38、39、40、41、42、43。
景定元年35篇,按年月日先后为28、23、3、7、11、15、18、19、20、21、25、29、30、31、41、4、14、12、22、24、17、26、2、4、6、8、9、33、34、5、27、32、16、13、56(二)。景定三年1篇:13。 景定四年1篇:10。
大隋元年——五年“奉敕照印”12篇:44、45、46、47、48、50、52、53、54、55、56(一)、57。其后,明洪武、景定、绍兴重发。
从贞观三年——开宝二年——绍兴十六年,年号很多,1篇:36。
(1)颁发时间不一,时空跨度很大。查已注明时间的券牒,从大隋一年、二年、三年、五年,到贞观二年,穿越数百年后又到南宋景定,大明洪武等。皇上钦定、朝廷颁发,那是不容改动的,受益者在视若珍宝同时,还会有金石铭记。尤其是景定元年,发有38篇:四月八日2篇,十月十一日1篇,十月二十日1篇,十月二十一日15篇,十一月一日2篇,十一月十一日3篇,十一月十五日1篇,十一月二十一日1篇,十二月一日1篇,十二月十一日6篇,十二月十二日1篇,十二月二十一日3篇,无月日1篇。有写景定元年,还有写景定元禩。古本型《评皇券牒》58篇,有这么多时间不同、内容基本相同、文字表述却不太一样,说是皇上颁发,令人难以置信。
(2)年号和文体不对。大隋一年,正确地说是“开皇元年”。再说,皇上颁旨有“奉天承运,皇帝诏曰”“钦此”等专用语汇,《评皇券牒》上都没有。
7、《评皇券牒》疑始出大隋初年:
大隋是杨姓人建立的帝国。虽然它象一颗流星,却对后世产生过重大影响。余之见,首批《评皇券牒》始于大隋初年,有较多可信的依据:
(1)古本型《评皇券牒》中,有13篇注明是大隋一至五年发。其中大隋元年发3篇:
第44篇278页上“大隋元年五月十三日放(制)造,与后代子孙共十二姓瑶人作记。”
第45篇291页中间“大隋元年五月十八日置示,告与平王给李大护万万代之瑶民子孙,一共有十二姓瑶民人丁,……出给圣牒榜文”。
第46篇303页第4行“祖代相传,券牒为凭。至时大隋元年五月十二日,制造与后代子孙共十二姓瑶人作据。”
以下从简:隋代二年(582年)五月十三日发9篇:48(323页中)、49(330页中)、50(335页中)、51(340页中)、52(346页中)、53(352页中)、54(356页)、55(365页)、57(373页上),到贞观二年(628年)、开宝八年(957年)又作补充;
大隋五年五月五日发:56(367页下)。
(5)古本型《评皇券牒》中,有大部分券牒自称是“依照前朝更新出给”,注于券牒前后,具列如下:
原书页码 篇目序 前言或后语照抄
3 一 前言:“朕正(理)忠(宗)景定元禩(一二六0)十一月一日,仍照前朝更新出给。”
13 二 前言:“正(理)忠(宗)景定元禩十二月十一日,招抚瑶人,仍照前朝更新出给,一十二姓瑶名,述列于后。”
20 三 前言:“朕(理)忠(宗)景定元年十月二十一日,招抚瑶人,仍照前朝更新出给评皇券牒。”
26 四 前言:“正宗(改字如前,下同)景定元禩十二月十一日,招朊瑶人一十二姓,仍照前朝更新出给。”
32 五 前言:“正宗景定元年十二月口日,招抚瑶人,仍照前朝更新出给一十二姓瑶民,言述于后。”
后语:“正宗景定元禩十二月二十一日,招抚瑶人,仍照前朝更新出给一十二姓瑶名(民)存照。”
38 六 前言:“正忠景定元禩十二月十一日,招抚瑶人仍照前朝更新出给一十二姓名述于后。”
44 七 前言:“正宗景定元禩十月二十一日,招抚瑶人十二姓,仍照前朝评王券牒更新出给。十二姓名意(记)述于后。”
51 八 前言:“正宗景定元禩十二月口日,时招抚瑶人,照前朝更新出给一十二姓瑶民存照。”
后语:“朕正宗景定元禩十二月二十一日,如字号券牒 通行。招抚瑶人为照,仍按前朝更新出给。”
55 九 前言:“正宗京(景)定元禩十二月十一日。照(招)抚瑶人,仍照前朝更新出给十二姓名述于后。”
后语:“朕[理]忠景定元禩十二月二十一日抚照。招抚瑶人,仍照前朝更新出给十二姓各述于后(前)。”
61 十 前言:“正宗景定肆年二月吉日,招抚瑶人,照仿前[朝]更新出给一十二姓名述于后。”
中间P66页“抚与瑶人为营生之计,仍照前朝更新出给一十二姓王瑶子孙。”
下文从简摘录:
第11篇69页“重新给牒盘王子孙十二姓收执为凭。”
第14篇90页“景定元年十一月初一日重给。”
第19篇14页“景定元年……依照前朝古本印版誊出。”
第36篇199页“开宝二年(969年)八月十五日重给牒照施行。”
第38篇219页“开宝二年八月十五日重新发给评(平)王券牒,敕照施行。”
第39篇223页“开宝二年八月十五日重新给付榜文牒一道,牒发天下各省山岭,……”
第41篇254页“景定元年,平王券牒重给榜照为凭。”
第42篇255页“开宝二年八月十五日重给榜文牒一道,牒下各处山头,收清原山……”
“照前朝更新给出”之“前”字,通俗的说法:前天、前年、前辈、前世等,对于昨天、去年、上一辈等而言,显然相隔了一段较长时空。如此而论,宋朝的前朝应是隋朝,或者更早。
(6)《评皇券牒集编》(古本型)前10篇,每篇正文开宗明义说:“评皇券牒,其来远矣”或“其来久矣。”即是说,评皇券牒,不是正宗景定年间才有的,它的来源太久远了。
以上记载表明:《评皇券牒集编》(古本型)已言之凿凿。《瑶族通史》将它定位于南宋颁发,显然不符券牒的自述。理宗景定元年为1260年,大隋元年为581年。即南宋颁牒要晚于隋代679年。整整跨越了隋、唐、五代十国、北宋等漫长年代。近700年的时空,于今看来,并不重要。但是,对于瑶族来说,却事关重大。我们知道,宋朝是开始使用“猺”字的朝代,即是更加鄙视瑶族的开端。而早于这个时代700年,瑶族就已经高举起了抗议应劭、干宝、范晔“盘瓠”“犬类”的义旗,比唐朝杜佑《通典》问世时间早100多年,这不是瑶族先民的伟大和捍卫自我尊严的正义行为吗?南宋时期,的确有大量的《评皇券牒》复制、抄眷,在瑶族民间发行,这是受瑶族上层人士倡导的,结合《盘王大歌》的创作和广泛传播,掀起了一次对侮辱瑶族称谓的强烈反抗。南宋及其以后的《盘王大歌》几个版本,就全然不见“盘瓠”“犬类”的踪影。这是瑶族民间一次伟大的文化复兴,是对宋代把“徭”字改为“猺”字的强烈抗议。瑶族“券牒”是重要经典,《通史》认为“首发于南宋”⒅,确有重大失察之嫌。
[49] 後漢の初平が評皇券牒に見える最古の元号です。 >>39 #page=9 (黄鈺 1988:55)
[93] 他で聞かない怪しげな元号が多いですが、概ね宋代に当てはめうるということは、 (たとえそれが偽文書、偽史だとしても) 外来まったく独自のまたは架空の元号を作り出して書いていたというよりは、 実在の元号が形を変えて伝わった可能性が高いと見ておくのが妥当でありましょう。
[95] そうだとすると「大隋」も元は「大隋○○」 (開皇, 仁壽, 大業あたり) と書いてあった可能性があります。
[96] 「人紅曽記」は近いものもなく謎です。 人皇だとすると道教的な意味でしょうか。 (日本だと人皇第何代誰々天皇何々元年のような言い方がありますが、 中華王朝では見かけません。)
[22] 「下元太歲己未年」 「大清下元咸豐玖年歲次己未」 「下元甲子咸豐七年丁巳歲」 のように三元甲子を書いた例があります。
[23] 国名と元号名の間に挟まるのは面白い点。
[26] 西暦年の元号名スロットにも国名を入れることがあります。
[173] ヤオ族伝統文献研究国際シンポジウム予稿集 - yokousyuu.pdf, , https://www.yaoken.org/data-room/data/yokousyuu.pdf#page=78
「
#page=131
大中華公元二零零八年。戊子歲,十月四日
#page=140
中華人民共和国、公元二零零八年十一月十二日、奉25真保安醮主、百年収照、
#page=145
公元二 00 八年戊子歳十一月十一日、
#page=147
中華西元二 00 八年戊子歳十一月十一日、