源久

源久

[17] 源久は、 日本の中世私年号の1つです。

用例

[5] 広安寺文書に用例が見えるとされます。 掛川藩太田資順の指示で編纂が開始された地誌 掛川誌稾 に言及があります。 >>1, >>12

[2] 広安寺は、 日本掛川藩遠江国佐野郡日根下鄕増田村 (昭和時代静岡県小笠郡掛川町大字仁藤字益田 >>3) にありました。 >>1

[4] 増田村の正確な位置がどこに当たるのか、 Web 上では資料が見つけられません。 34.776167, 138.027012 からそう遠くはない場所ではないかと思われます。 ではありながらも掛川城から近く、 近世から近代にかけて市街地化が進んだ地域のようです。

[6] 広安寺は何度かの変遷を経ており、この名称はからです。 所在地もまでは「仁藤村八幡宮の西」でした。 >>1 仁藤村八幡宮は、現在八幡神社と呼ばれている 34.775424, 138.023199 付近の神社でしょうか。

[7] 広安寺修験道陰陽道掛川藩との関係が深かったようです。 >>1 明治時代以後の状態について記述された文献は見つけられません。 現在 Web で検索しても地図を見ても、その後継らしき寺社は出てきません。 そこに伝わったとされる文書の行方も不明です。

[8] 掛川誌 によると、 広安寺には延喜2年、 源久2年、 観応2年の文書写本が伝えられていました。 >>1

[9] また 掛川誌 によると、 広安寺には永禄六年十月十九日の文書が伝えられていました。 その文中で >>8 の3つの文書に言及があります。 >>1

[10] 掛川誌 はこのうち延喜2年文書は怪しく偽書だろうと推定しています。 また、源久鎌倉の偽号だろうと注釈しています。 永禄6年文書は紙や墨の色が古く永禄の物で間違いないと断定しています。 >>8 の3つの文書は永禄6年文書から参照されているので、 その頃には原本が伝わっていたのだろうとしています。 >>1

[11] 掛川誌 は永禄6年文書の全文を掲載しているものの、残念なことに >>8 の3つの文書の本文は省略しています。 >>1

[14] 掛川市史 は、 掛川誌稿 を出典に「広安寺文書」から永禄6年文書だけを収録しています。 >>13 それ以上の説明はありませんが、 掛川誌稿 以後文書の実物を参照できなくなっている可能性があります。

[15] 源久2年文書は、 掛川誌 によると高氏公より観長という者に賜った証文です。 永禄6年文書には、「尊氏将軍御判形」とあります。 >>1

[16] つまり足利尊氏広安寺の祖先の観長に陰陽師としての活動に関係して「源久2年」 に発給した文書ということのようです。

[29] >>28掛川志稿 を引いた地名辞書からの引用がありますが、 源久2年文書などの部分がなぜか省かれています。

研究史

[18] 日本江戸時代文化年間頃の 掛川誌 で紹介されました。 掛川誌 は「鎌倉の偽号」と推測しました (>>10)。

[19] 「鎌倉の偽号」とは何か説明がありませんが、当時いくつか知られ始めていた中世東国私年号の一種というくらいの意味なのでしょう。

[20] その後令和時代に至るまで私年号研究者に捕捉されることなく忘れられていました。

メモ

[22] 類似する元号名として建久が想起されますが、あまり関係ないかもしれません。

[23] 建久鎌倉幕府初代の源頼朝の時代なので、似ているのはあながち偶然とも言い切れないかもしれません。


[24] 高氏尊氏が確かに足利尊氏を指すのだとすると、 源久と誤読、誤写しそうな元号は見当たりません。

[25] 延喜偽文書らしきものがあること、 権利主張の材料として使われたらしい文書であること、 室町幕府初代といういかにもな有名人であることを考えると、 これも偽文書である可能性は当然疑うべきでしょうな。

[21] 偽文書元号の一種、広義の秘伝書の日時といってもいいのかもしれません。


[26] 文書も偽文書であるのかどうかは、 判断が難しそうです。

[27] 掛川誌 の推測通り永禄6年時点で3つの文書の「原本」が存在したのかどうかも考えてみる必要がありそうです。