[2] JDCP の公開する 日記天候記録 は、 江戸時代の弘前藩 (津軽藩) の執務日記等から抽出した気象関係の記録です。 >>82
[3] 原典の日記は、 江戸時代に弘前藩の藩庁 (現日本国青森県弘前市) および江戸屋敷 (現日本国東京都) で記録され、 原本および写本が弘前市に保管されているものです。 そこから天候等の記述を抜き出して Microsoft Excel スプレッドシートにまとめたものが、 PDFファイルとして印刷されて Webサイトで公開されています。 >>82
[4] データベースは主として天候データをまとめたものですが、 その他の記事の要旨も一部収録されています。 以降の各節に示したのは、 暦や元号に関する記述です。
[5] PDFファイルには、 記録が暦日ごとの行の並びとして示されています。 各暦日にはグレゴリオ暦の年月日 (西暦年) と、旧暦の年月日 (元号年) が示されています。
[6] グレゴリオ暦は旧暦の年月日から本データベースの作成時に換算されたもののようです。
[7] 旧暦は原典の日記に由来するものですが、 原典の日記はすべての暦日に年月日を書いているわけではないと思われます。 何ヶ月かの分が一冊にまとめられていて、 表紙に何年何月と書かれているとみられます。 PDFファイルではすべての暦日に年月日のすべてが書かれています。 改元が適用されるのが多くの元号で月初になっているのは、 元号が月単位でしか書かれていないためでしょう。 ただし月の途中で元号が変わっていることや、 改元記事よりも前の月から元号が変わっていることもあります。 表紙の張替えや原本から写本に書き写した際の変更があったのでしょうか。 (注記と元号が一致しない例 (>>8) もあります。) こういった部分は原典の日記を確認したいところです。
1666年 3月5日 寛文6年 正月30日 (日記に正月晦日なし、あるべき日をなくしているのは勝手大の月の調整かもしれない、寛文2年8月29日部分参照)
1671年 3月27日 寛文11年 2月17日 天気曇 但午の刻より雨雪降 (暦がきて御家老・各奉行・代官達・いくつかのお寺に渡す)
1673年 11月21日 寛文13年 10月13日 雨天 (9月21日改元:寛文→延宝)
1674年 1月19日 寛文13年 12月13日 寒天 (暦配布の覚:久昌院様へ1本・御番所などへ)
1675年 1月5日 延宝2年 12月10日 天気能 (御暦を配布する)
1676年 3月7日 延宝4年 正月23日 暘 (御用の暦70本遅れて下る) 1676年 3月8日 延宝4年 正月24日 晻 雪 1676年 3月9日 延宝4年 正月25日 晻 雪 雨 霙 (こよみの配布先あり)
1678年 1月19日 延宝5年 12月26日 なし (御用の暦70本下之)
1679年 2月1日 延宝6年 12月20日 暘 (来年の暦渡す:御前・久昌院様(ここまで金表紙)・庄右衛門様・長泉院殿・善久院殿・盛岡主膳・北村弥右衛門・渡辺次太夫・進藤庄兵衛・夫外......)
1680年 1月22日 延宝7年 12月21日 暘 (御用の暦50本下着)
1681年 12月3日 延宝9年 10月24日 晻 夜雨 (26日より「天和」と改元とのこと、改元は9月29日に行われている・この報の江戸藩邸着が10月9日当日の日記から天和としている・田舎ほど改元が遅れる?) 1681年 12月9日 延宝9年 10月30日 晻 1681年 12月10日 天和元年 11月1日 晻 未の刻雨 雷数発 申の刻地震
1688年 11月9日 貞享5年 10月17日 昨夜中より雨 今巳の刻に及び止み陰晴 (当月6日改元・元禄と江戸で仰せ渡し)
1704年 5月25日 元禄17年 4月22日 快晴 午の刻より曇 同下刻より雨 暫くして止む (19日岩木山で熊(胆長4寸廻り7寸)取る、去月晦日(江戸)城で3月晦日より宝永と改元を言い渡される)
1711年 7月4日 宝永8年 5月19日 曇 昨夜より小雨 (当月朔日より正徳と改元の飛脚到着)
1715年 3月25日 正徳5年 2月20日 晴 彼岸に入る (暦が間違っていたか?:福眞)
1716年 8月29日 正徳6年 7月13日 雨 昨夜より雨 申の上刻晴 (7月1日から年号が享保となる)
1718年 9月14日 享保3年 8月20日 午の下刻より雨降 夜に入り雷発す (鯵ヶ沢の時疫24人煩い5人死亡)(本日の日記の干支として「丙申」:公式の暦と合っている) 1718年 9月15日 享保3年 8月21日 晴小風(馬入札:3匁~55匁8分) (本日8月21日から日記の干支が「丁戌」と公式の暦とずれる・「丁戌」はありえない組み合わせ・途中でまたずれこのことは年末まで続く)
1719年 2月18日 享保3年 12月30日 陰晴 (本日の日記の干支として「辛酉」:8月からここまでずれがある) 1719年 2月19日 享保4年 正月1日 快晴 夜中小雪 (本日の日記の干支として「甲戌」:当時の暦に戻る)
1736年 6月30日 元文元年 5月22日 快晴 (7日から元文に改元、山形まで300両を御内分から貸し出して送る、先月中大間越:出25・入り41人、足軽の警固と並では羽織が異なる)
1741年 4月30日 元文6年 3月15日 快晴 (7日出火の桜田村・後潟組山本村・金木新田富野村の火元の村預け赦免、元文から寛保への改元通知届く) 1741年 5月4日 元文6年 3月19日 晴 (屋形様綴子駅で御不快、当月3日寛保と改元)
1744年 4月24日 寛保4年 3月12日 快晴 (先月29日延享と改元、5日岩崎村に破船1艘)
1748年 | 8月25日 | 延享5年 | 8月2日 | 曇 巳の中刻より小雨 | (堀越組境関村に者倒死、昨19日年号改元) |
1748年 | 8月26日 | 延享5年 | 8月3日 | 快晴 | |
1748年 | 8月27日 | 延享5年 | 8月4日 | 快晴 | (年号は「寛延」となる、先月29日喜良市山の山火事80間×40間、先月晦日大和沢山の山火事50間×10間) |
1752年 1月10日 寛延4年 11月24日 快晴 (去る3日年号改元の御廻状江戸屋敷に届く) 1752年 1月11日 寛延4年 11月25日 快晴 1752年 1月12日 寛延4年 11月26日 快晴 1752年 1月13日 寛延4年 11月27日 晴 (当月3日年号宝暦と改元)
1764年 7月26日 宝暦14年 6月28日 晴 夜中雨ふる (大鰐村嘉賀助・兵左衛門より初米穂差上・4月26日植付・去年は4月21日植付で6月24日・去年より日数で1日節に引合7日早い、当月13日江戸で「明和」と改元仰出される)
1772年 10月27日 明和9年 10月2日 快晴 (暦は江戸天文方で作り京都の陰陽博士が日取りの吉凶を入れるといった暦の作り方あり)
1773年 1月4日 明和9年 12月12日 晴 (今日御家中二男三男まで剣術仕方高覧、改元:年号安永) 1773年 1月7日 明和9年 12月15日 晴 (去月25日に安永と改元)
1781年 5月27日 安永10年 5月5日 快晴 (年号を「天明」と改元(去月25日))
1789年 3月17日 天明9年 2月21日 晴 今暁雪少々 今日暖和 (去る3日改元:年号寛政)
1796年 10月31日 寛政8年 10月1日 曇 昨夜よりの風雨今朝に及ぶ 卯の刻頃止 (当年より学校天文学頭が暦を差上げる)
1798年 3月2日 寛政10年 正月15日 曇 今日時々雪降 (松前がらみで褒美沢山、改暦宣下かな?)
1801年 4月21日 享和元年 3月9日 晴 (昨日駒越組坂市村で出火・類焼穀物焼失・火元高無他村預け、昨13日(江戸から来た便りで2月)年号を享和と改元)
1804年 4月24日 文化元年 3月15日 晴 卯の刻頃雨降 則刻止 (去月19日江戸表で年号文化と改元仰せだされる)
1815年 12月8日 文化12年 11月8日 曇 今日雪少し降 (学問所より来暦差上げる)
1818年 6月21日 文化15年 5月18日 晴 (一昨4日江戸で年号御改めの儀仰せ出される・年号は文政となる)
1822年 12月31日 文政5年 11月19日 曇 (間違った大小暦を売り出した者がある・出版差留め20日の戸〆、当5月一ノ森村寄郷狐森村で松20口取押える・8人に1貫500目充て上納させる・同村庄屋にも過料)
1831年 2月18日 天保2年 正月6日 曇 昨夜雪少降 今日雪降 二寸程積 頃日寒強 (旧臘16日江戸城で年号を天保と御改を仰せ出される、去る11日西館宇膳を御家老職に等の人事異動、江戸で多数に御賞)
1835年 2月6日 天保6年 正月9日 晴 (去る23日笠原近江に200石加増・その親恕休(八郎兵衛の号)を御家老隠居同様とし薬王院における御先代様侍座を以前に戻す、学問所で出来の略暦を例年の通り差登す、人事異動)
1843年 4月16日 天保14年 3月17日 快晴 (寛政暦をこの度京都で改暦宣下(ここも平出)・新暦号は天保壬寅元暦、去る14日夜常盤組中嶋村で出火・類焼共4軒等焼失・火元他村預け)
1845年 2月5日 天保15年 12月29日 晴 (去る13日江戸表に於いて年号弘化と改元)
1848年 5月6日 嘉永元年 4月4日 晴 (江戸で御門の門限破りが出ている・門番とその責任者(諸手足軽警固)は御国下がりの上江戸上方登り差し止め、昨15日年号を改元・嘉永と仰せ出される)
1855年 2月14日 嘉永7年 12月28日 曇 昨夜雪降 二寸程積 今日雪少し降 (砲術稽古教授の3人(金300疋)・教授手伝い5人(200疋)に御賞、去る16日若殿様が四品仰せ付けられる、年号を安政と御改め)
1855年 3月8日 安政2年 正月20日 快晴 (去る13日夜金木組相内村で馬草煮釜から出火・十三町など近郷の者も駆けつける・類焼共13軒焼失・火元百姓他村預け、この度年号改元に伴い御印紙並びに切手紙の認め方を変更する)
1860年 5月15日 万延元年 閏3月25日 曇 昨夜よりの雨今日ニ及 午の刻頃止 28日から続く 火元他村預け、去る25日夜町油川で出火・55軒焼失・火元他村預け、江戸で人事異動、去る朔日年号を改元)
1860年 5月21日 万延元年 4月1日 曇 今暁子の刻頃より雨時々降 (人事異動、改元の年号は万延と触れる)
1861年 4月26日 万延2年 3月17日 曇 卯之刻過より雨時々降 酉之刻過止 下から続く これからは能書(原本を見よ)に沿え値段を明示(大粒15粒(又は?)小粒30粒は金100疋・大粒8粒 欄外(*)に続く 1861年 4月27日 万延2年 3月18日 晴 申の刻過より雨時々降 (当スツ・詰諸手足軽頭戸田某が20日出立、大豆隠越の儀に付碇ヶ関町奉行が御奉公遠慮伺いを出す、これまで一粒金丹の値段は不同だった・ 上に続く (*)小粒15粒で金2朱)するようにする、来る26日御発駕と仰せ出される、去月28日で登城したら年号を文政と改元したことを知らされる、江戸で人事異動)
1861年 | 7月9日 | 文久元年 | 6月2日 | 曇 午之刻過より雨降 申之刻頃止 | (似せ暦並びに晴雨考開版・売払いの青森町の男共を戸〆15日等、岩木山御室近くで大石噴出・飛散(火山活動?)したので御堂で重き御祈祷) |
1864年 4月27日 文久4年 3月22日 曇 (人事異動、昨年潰れた久渡寺の観音堂の御仮殿が皆出来、去月?朔日年号を元治と改元、大殿様の御賄料4100石を1000石増の5100石とする、江戸で人事異動)
1864年 5月2日 文久4年 3月27日 晴 (去る朔日年号を元治と改元、文久元年6月に下居宮の御普請中に地面より穿出した石櫃がある・百沢寺の旧記に記載があった・旧記の内容と櫃の形状が書いてある)
1669年 | 12月22日 | 寛文9年 | 閏10月29日 | 天気能 | (この後に晦日(存在しえない日)の記事(天気能)あり:津軽の私大(勝手に小の月を大の月にすること・多分弘前藩だけではない)の一例か?) |
1673年 | 11月6日 | 寛文13年 | 9月28日 | 天気能 | (去ル21日に延宝元年と改元との申し渡しが殿中である) |
1673年 | 11月7日 | 寛文13年 | 9月29日 | 雨天 | (御国元今月20日ニ立候飛脚酉ノ刻上着) |
1673年 | 11月8日 | 寛文13年 | 9月30日 | 雨天 | (御国元へ之御飛脚立ル・但明六ニ遣ス) |
1681年 11月9日 延宝9年 9月29日 晴天 (この後に存在しえない晦日の記録がある(天気の記述なし):普通の日のように朝御前を召し上がり夕御前を召し上がっている)
1681年 11月17日 延宝9年 10月8日 雨天 下から続く 仰せ渡される・京都にては先月29日近衛様御改め遊ばされ候由今朝仰せ渡される(改元は9月29日である)、弘前藩庁日記(江戸)は12月迄が1冊で「延宝」が続く) 1681年 11月18日 延宝9年 10月9日 天気能 (日付の前に:延宝9年10月9日に改元也・天和元年10月9日と書いてある、今朝1万石以上の御大名様に仰せ渡され候はこの度年号を「天和」と改元の由白書院で 上に続く 1681年 11月19日 延宝9年 10月10日 雨降 (卯ノ刻御国元江御飛脚2人遣わされる)
1684年 4月12日 天和4年 2月28日 天気能 (年号を貞享と改元・今日殿中出仕之諸士江御老中様御烈座(列座?)ニ而仰渡されると申来ル・改元の日不明)
1685年 1月7日 貞享元年 12月3日 天気能 古歴寒ニ入(貞享から新しいこ暦が使われたか・その後だと国の定めと異なるので謀反だな)
1685年 2月4日 貞享2年 正月1日 雪降 巳刻晴 立春 今年より暦改マル
1686年 12月22日 貞享3年 11月8日 天気能 (保井算哲?が来歴(来年の暦でしょうか)2本差上之)
1688年 10月28日 貞享5年 10月5日 天気能 下から続く 弘前に届いたのは10月17日)、御国元江御飛脚3人申付・明日より道中10日振ニ申付戌刻相立之) 1688年 10月29日 貞享5年 10月6日 天気能 (御登城遊ばされたところ年号元禄と御改めの由仰せ渡される(本日記の表紙には10月6日より元禄と年号改元との記載あり・辞書には9月30日からとある・ 上に続く
1704年 5月3日 元禄17年 3月30日 (天気の記述なし) (年号の儀当月29日迄元禄17年・今日晦日より宝永と改元仰せ付けられ候)
1711年 6月16日 正徳元年 5月1日 曇ル (年号の儀先月29日まで宝永・今日朔日より正徳と改元)
1741年 4月19日 元文6年 3月4日 陰晴 未中刻ヨリ 及終夜 (年号改元を申しわたしている)
1744年 4月12日 寛保4年 2月30日 曇 昨夜中より雨 (昨日年号延享と改元)
1748年 8月13日 延享5年 7月20日 快晴 午之刻より雨時々 (去ル18日年号寛延と改元)
1751年 12月20日 寛延4年 11月3日 快晴 (改元之年号:寶暦(ホウリャクと仮名がふってある))
1764年 7月12日 宝暦14年 6月14日 曇 至今昼時晴 (昨13日惣御出仕・年号改元明和となる)
1789年 2月28日 天明9年 2月4日 快晴 (昨日仰せ出され候年号改元・寛政となる)
1801年 3月28日 寛政13年 2月14日 (天気の記述なし) (勘定奉行申出候:当御廻船5艘を昨12日品川沖で見分、年号改元) 1801年 3月29日 寛政13年 2月15日 (天気の記述なし) (一昨日13日年号享和(キャウハ)と改元)
1804年 3月31日 文化元年 2月20日 曇 (昨19日年号「文化」と改元)
1831年 1月30日 文政13年 12月17日 快晴 (昨16日年号「天保」と御改)
1845年 1月20日 天保15年 12月13日 陰晴 (今日「弘化」と改元)
1848年 4月19日 弘化5年 3月16日 雨 未ノ刻過より陰晴 南風 (昨15日年号改元仰せ出され候今日年号書が届く) 1848年 4月20日 弘化5年 3月17日 晴 午ノ刻前より曇 戌ノ刻頃より少々曇 (年号は「嘉永」)
1855年 1月23日 安政元年 12月6日 快晴 (嘉永から安政に改元・翌7日の記述で5日かな)
1860年 4月23日 万延元年 閏3月3日 曇 午之刻過より雨 (年号改元・翌日に萬延との記述)
1861年 2月10日 文久元年 正月1日 晴 (本来1冊に綴じられていた弘前藩庁日記(コピー版)の正月から3月は内容が万延2年で表紙には文久元年と印刷されている)
1861年 4月7日 文久元年 2月28日 小雨 (文久と改元)
1865年 1月27日 慶応元年 正月1日 快晴 (改元のはるか前であるが弘前藩庁日記(コピー版)には慶応となっている)
1865年 5月13日 慶応元年 4月19日 曇 午の刻前より晴 (年号書松平越前守様より御順達) 1865年 5月14日 慶応元年 4月20日 晴 1865年 5月15日 慶応元年 4月21日 曇 午の刻過より雨 (今日年号「慶応」と改元)
1868年 | 4月5日 | 慶応4年 | 3月13日 | (天気の記述なし) | (今日休日(昔から3・6・9日は休日)ニ付一統出仕無之) |
[15] 日記は欠落部分を除けば毎日のように書かれています。 ところが、
と不審なこともままあります。
[19]
日記の書き間違えの可能性もありますが、中央の暦と異なる暦が使われた可能性もあります
(
[20] どう調整されるべきなのか、ウェブ上で公開されている一覧表を一見しただけでは判断が付きません。
[21] 私大の可能性も指摘されています (>>171)。 弘前藩では私大があったとされています。 ただ指摘の箇所は閏10月なので、12月を延長する私大とは違うように思われます。
[22] また、他藩で私大の記録があってもこちらの日記では12月30日の記事がない年も多く、 私大が実施されたのか、されたとして公務ではどう取り扱われたのか、 詳細な分析が望まれます。
[23] 30日の問題は古い時代に多く見られることから、 暦の標準化によって全国共通の暦が成立するまで、 日付のずれが残っていた可能性は十分にあります。 日記の日付情報だけでは判断が難しく、 記事内容の他記録との比較など、詳細な分析が望まれます。
[81] Microsoft Word - 解 説 Vol.2 - HhKaisetsu.pdf, , https://jcdp.jp/wp-content/uploads/2018/01/HhKaisetsu.pdf#page=4
[10] 日記天候記録 から改元に関する日付を抽出して表にしたものです。
[12] 記録ファイル中にある改元関連の記述は、 その度毎に表現が異なっています。 その違いは原典の日記の表現の違いをある程度保存していると思われます。 (本来なら原典の日記を確認できると良いのですが。) できるだけそのニュアンスの違いに注意しつつ表にしました。
[13] 「改元記事」は改元の事が書かれた記事の日付です。 「記事日付」は 日記天候記録 の旧暦年が新元号に変わる日付 (>>7) です。
[14] 「江戸藩邸発」は改元記事以後最初の飛脚発記事の日付です。
[11] 「[江戸]」とあるのは江戸藩邸日記より、 「[藩]」とあるのは藩庁日記より。
[27] 弘前藩庁日記, https://adeac.jp/hirosaki-lib/top/topg/hanchou/index.html