建興

建興

建興 (晋)

[1] 長い年号ベスト13: 年号迷路, http://gaowei.cocolog-nifty.com/nengo/2005/05/post_a3c5.html

[2] 89_KJ00003672642.pdf, https://www.jstage.jst.go.jp/article/shigaku/89/1/89_KJ00003672642/_pdf/-char/ja#page=16

[3] 前涼の元号

建興 (高句麗)

日時事例

[5] 朝鮮忠州郡老隠面山中で出土したとされ、 朝鮮人朝鮮半島在住日本人に販売し、 その数年後の大正4年に黒岩勝美が入手し、 朝鮮総督府博物館に収めました。 >>28, >>7862

[7] 銘文から高句麗または百済とされ、 出土地から百済の鋳像と考えられました。 >>7862, >>1643 黒岩勝美百済仏としました。 藤田亮策は様式から6世紀中期から7世紀初頭のものとしました。 (また、扶余発見の光背に「甲申年」銘のものがあり、 ほぼ同時期としました。) >>7862 久保常晴は6世紀末としました。 >>1643

[8] 1字目は不明確で、「建」と読めますが、「延」だという説もあります。 >>7862, >>12 が、あまり支持されておらず、やはり「建」だとされます。 >>7862, >>1543

[9] 延興の利用は百済史的にあり得ることとはいえ >>1543とは年数が1年ずれ >>7862 るのは大問題です。

[21] 中国の元号渤海の元号建興はいくつかありますが、 時代 (様式) も干支年も合いません。 >>26, >>28, >>1717 (서영대1992 譯註 韓國古代金石文(I) 建興五年丙辰銘 金銅光背)

[27] 黒板勝美に仮説と前置きした上で、 様式と出土地、銘文から百済元号 (y~2189) または (y~2188) と推測しました。 >>34, >>26

[29] 同じく黒板勝美に様式と出土地、銘文から百済元号 (y~2188) と推測しました。 百済説を取りながらも高句麗の可能性も指摘していました。 >>36, >>28

[31] 大正4年に知ってからの大正5年の講演の説は「速報」的な考察で、 大正14年の説が熟考を経たものなのでしょう。

[33] 関野貞は、度に、 おそらく百済逸年号 (y~2188) だろうとしました。 >>35, >>32 根拠は明記されていません。

[38] 朝鮮総督府 朝鮮金石総覧は 「□興五年歳在丙辰」 (明朝体) とし、統一新羅時代の末尾に時期空欄で収録していました。 >>37 葛城末治はこれを当時拓本のみで調査したためだと説明しています。 >>39

[41] 葛城末治 朝鮮金石攷 は、 黒板勝美関野貞の説に従い、 様式などから (y~2188) としました。 >>39

[10] 藤田亮策百済元号で、 (y~2189) または (y~2188) と推測しました。 >>7862

[57] 藤田亮策説は百済元号説の早いものとして紹介されることがありますが >>56 #page=7、 実際には先行研究に見解を付け加えた程度で、どちらかといえば遅いものです。

[15] 日本私年号の研究百済元号で、 (y~2188) と推測しました。 >>1543

[14] 日本私年号の研究 は史書にないので私年号としています。 >>1543 史書から漏れたものかもしれず「一応」と留保されていて、 十分検討した上での判断ではありません。 私年号

[20] 紀年歳在が現れる点は注意されます。 >>1543 歳在

[42] 百済説 (y~2188) は昭和時代を通じて定説となっていました。

[25] 中吉功百済としました (y~2189)。 >>1717 (新羅・高麗の仏像, )

[59] 昭和時代の研究者坂元義種は、 百済説を踏襲した上で、 中国の元号建興は2代皇帝や建元後第2元号に使われている、 国が興り盛んになる意のものであることから、 百済もそれに倣って第2の元号として使ったものだと推測しました。 >>58

[60] 元号名の意味の推測は大喜利になりがちな中で、 このような方法の推測は珍しいです。 あまり検討されていない分野なので、深化が望まれます。 元号名 (逆に言えば現段階ではヒントの1つに使える程度で、 断定的な材料にはなりがたいです。)

[61] 元年に当たる百済の権力高揚や誇示を伺わせる記録は 三国史記 に見当たりません。 >>58

[68] 日本の論文では建興百済元号だと当然のように前提にしていて、 未だそれが通説だったことがわかります >>67

[24] その後出土地は南下した高句麗の領土だったと考えられるようになりました。 中原高句麗碑発見後、 高句麗作とする説が有力になりました >>1717 (高句麗の金石文, 田中俊明, 朝鮮史研究会論文集 18, )建興高句麗の元号と考えられるようになりました。

[43] 田中俊明高句麗元号説まで踏み込んだかは不明。

[46] 이병도 (李丙燾) は中原高句麗碑の発見時に碑文に 「高麗建興四年」 とあると主張しました >>45, >>55大韓民国ではその後の研究者は否定的 >>45 とされます。 ( □熙 ) 一方で中華人民共和国の研究者は21世紀初期にもその読みを採用していて >>52中文维基百科もそれに従っています >>51

[53] 中原高句麗碑の碑文、 高句麗の建興4年、 建興5年丙辰を組み合わせると、 該当するのはとなります。 >>52

[47] 이병도はそれを根拠に説 (y~730) を唱えました。 >>1717 (中原 高句麗碑에 대하여, 李丙燾, 史學志 13, )

[44] 朝鮮民主主義人民共和国の研究者 손영종 (孫永鍾) >>1717 (금석문에 보이는 삼국 시기의 몇 개 년호에 대하여, 력사과학 1966-4), >>1689 は、 安藏王5月に死去、 安原王建元があったとして、 高句麗の元号説 (y~2189) を取りました。 >>56

[63] 손영종 個人がどうかはわかりませんが、朝鮮民主主義人民共和国の研究者は高句麗独自元号説を (特に理由がなくても) 取りがちです。 高句麗の元号 というかなり早い段階での高句麗説ですが、 高句麗だという十分な根拠があってのことでしょうか。 それとも数撃ってあたった感じでしょうかね?

[62] 黃壽永 >>1689説 (y~2189)。

[22] 서영대 >>1717 (서영대1992 譯註 韓國古代金石文(I) 建興五年丙辰銘 金銅光背), 임기환 >>1689, 이승호 >>1717説 (y~2188)。

[64] 大西修也は、 造像銘の仏教史学的解釈から北朝の系譜で高句麗またはとしました。 >>56 (日韓古代彫刻史論, 大西修也, , 第六部 日韓古代彫刻の造像銘研究)

[23] 王光錫>>1689

[48] 新羅建福 (y~229) の誤記説もあります。 >>1717 (文明大1980) しかし, で遠いです。

[49] 現在の大韓民国では高句麗 (y~2189) または (y~2188) 説が有力となっています。 >>1717

[65] 三国史記高句麗王の在位年に最もよく合致するのは (y~2189) 説です。 しかし延嘉との兼ね合いが問題となります。


[30] 黒板勝美は、 法興寺と関係する日本法興と同じように、 百済王興寺と関係すると推測しました。 >>28

[17] 西田長男は、 法興寺を記念した日本の私年号法興と同じように、 建興寺を記念した建興日本にあって、 それを百済でも利用したと主張しました。 >>16, >>1643 (>>16)

[19] 法興寺建興寺の造立開始はちょうど両元年の頃に当たります。 日本正朔百済が奉じたかどうかはともかく、 偶然にしては出来すぎた寺院名と元号名の2対の一致は興味深いものですが、 その後の研究者はあまり検討していないようです。 建興元号日本との関係が見えないのがこの説の弱点でしょうか。

[16] 日本古典の史的硏究 - 西田長男 - Google ブックス, , https://books.google.co.jp/books?id=DycGAAAAMAAJ&q=%E5%BB%BA%E8%88%88

思ふに、之は我が國の私年號の「法興」「法興元」と一聯のもので、かの法師寺たる飛鳥寺即ち法興寺と尼寺たる豊浦寺即ち建興寺との寺の創立を記念して建てられた年號を百濟に於ても使用したのであるまいか。 このとき彼の隣では却って我が國の正朔を奉じてゐたのでなからうか。尤も我が国では崇峻天皇の四年が元年で、そこに一年の相違を横たへる第一章古事記・日本書紀の歴史的信憑性四.

四百擠には私年號が存しなかつたやうであるから、それはシナの年號であつて、而も百擠がその正朔を奉じなければならないやうな、それに封していはば従屬關係に置かしめられてゐた國の年號でなければならない。

これ兩國の交渉の史籍に見える最初とせられるが、如上の七支刀の銘文には、之より先き三年、太和四年の年號の親はれるよりするに、百は、咸安二年以前に於て既に東晋に朝貢して、その正朔を受けてゐたのを知られるのである。 蓋し、それは我が大和朝廷に對すると同じく、對高句麗關係に於て、何等かの援助を彼の國に仰がうとする政治的意闘に出たものであらうと思はれる。山」「取是山と奏してゐるが、これ既記の如きを感謝した言葉に外ならないであらう。(之に「白西、而我、是 ...

制天朝一我國政¡當然天皇暴召之 」と推定する外はないやうに思はれる。 ... 「百擠王」とあるから、それはこの百擠の、建國以後滅亡に至る間のものでなければならない。但し、三國史記、百擠本紀第二、近肖古 ... の私年號としては、忠州釋迦像造像記に見える「建興」といふのがあるにはある。 その元年は威徳王の三十九年と推定せられ、崇峻天皇の五年に嘗る。

位者皆忻辛巳朔乙酉、皇太子 四條以外にも、冒頭の清次に このやうにして同じ山部のでも、古事記では安康記に、書紀では雄略 ... などに参照して私に推定したものであらうと思はれる。殊に月日までも一々推定したのは、餘りにもその模範とした漢史の闇にとらはれ過ぎてゐるやうにも思はれる。つて我が國に干友や年號が一般に通行されるやうになったと考へられる欽明朝以前の書紀の紀年は、その一つ一つに就て検討を ...


[54] なお、中原高句麗碑

高麗建興四年五月……十二月廿三日甲寅……辛酉年

と読んで建興4年をとする場合、 この年は閏3月、11月壬辰朔、11月23日甲寅12月辛酉朔 (甲寅日なし) となります。 そのため高句麗では閏12月があったとして、12月壬辰朔、12月23日甲寅と考えます。 >>51


[11] 歳在も参照。

[50] 桓檀古記の日時, 百済年号も参照。

[66] 桓檀古記に登場することから、 長寿王の時代に当てはめて建興の元年はかとするものがありますが、 それ以上の根拠はなさそうです。

[40] 고구려의 稱元法과 年號 운용, https://www.kci.go.kr/kciportal/ci/sereArticleSearch/ciSereArtiView.kci?sereArticleSearchBean.artiId=ART002607784 (PDF 全文あり) #page=25

メモ