建武

建武

建武 (後漢)

[5] 後漢光武帝の年号。

[3] 宋書/卷29 - 维基文库,自由的图书馆, , https://zh.wikisource.org/wiki/%E5%AE%8B%E6%9B%B8/%E5%8D%B729#cite_note-34

漢光武建武十三年九月 「建武」各本並作「建元」,據後漢書光武紀改。

建虎

[10] 三国遺事 本文中に建虎 (y~4003) があります。 >>8

[11] 後漢建武の意と説明されています。 >>8, >>9, >>29

[14] 高麗王恵宗王武 (在位 -) の避諱で武は虎に置き換えられました。 >>12, >>13, >>7862

[15] 建虎建武避諱元号と解されます。 >>7862

[12] 한국사데이터베이스시스템, https://db.history.go.kr/item/bookViewer.do?levelId=sg_026r_0050

『三國遺事』 권1 王曆에는 호령왕(虎寧王)으로 나온다. 이는 『三國遺事』의 찬자가 고려 혜종(惠宗)의 이름인 무(武)를 피휘(避諱)해서 호(虎)로 고쳐 쓴 것이다. 비교적 늦은 나이인 40세에 동성왕이 시해되면서 왕위에 올랐으며, 여러 현실적인 정책을 펴서 백제를 중흥시킨 군주가 되었다.

[13] 피휘(避諱) - 한국민족문화대백과사전, https://encykorea.aks.ac.kr/Article/E0060499

혜종의 휘자인 ‘무’의 경우 ‘홍무(洪武: 명나라 태조의 연호)’를 ‘홍호(洪虎)’로, 후한 무제(武帝)를 ‘호제(虎帝)’로 바꾸어 썼다. 또한 966년(광종 16) 5월에 세워진 문경의 봉암사 정진대사원오탑비(靜眞大師圓悟塔碑)에 ‘무반(武班)’이라는 관직을 ‘호반(虎班)’으로 피휘하였다.

建㱏

[22] 三國遺事/卷第二 - 维基文库,自由的图书馆, , https://zh.wikisource.org/wiki/%E4%B8%89%E5%9C%8B%E9%81%BA%E4%BA%8B/%E5%8D%B7%E7%AC%AC%E4%BA%8C

屬建㱏二十四年戊申七月二十七日。

[25] 한국사데이터베이스 비교보기 > 수로왕의 탄생과 육가야의 성립 설화, https://db.history.go.kr/item/compareViewer.do?levelId=sy_002_0010_0230_0010

駕洛國記 文庙朝大康年間, 金官知州事文人所撰也, 今略而載之.

屬後漢世祖光㱏帝建㱏十八年壬寅三月禊洛之日

[23] 㱏は定や正の異体字とされていますが、ここでは武の欠画なのでしょう。

[27] 京都帝国大学文学部叢書 第6 巻2, 京都帝国大学, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1183694/1/42

やや癖ありの楷書

[26] 三国遺事 第2, 一然 撰, 坪井九馬三, 日下寛 校訂, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/991990/1/34

㱏 (明朝体)

[24] 武の欠画は他に㱐がありますが、建㱐はウェブ検索しても出てきません。 (翻刻に直していることもあるかもしれないので、 原書や画像を調べないとなかったのかはわかりませんが。)

建武 (西晋)

[16] 西晋恵帝 y~545

[17] 元年

建武 (東晋)

[18] 東晋中宗元帝司馬睿 y~1200

[19] 元年

[4] 宋書/卷33 - 维基文库,自由的图书馆, , https://zh.wikisource.org/wiki/%E5%AE%8B%E6%9B%B8/%E5%8D%B733#cite_note-27

晉愍帝建武元年 「晉愍帝」各本並作「晉武帝」。按晉元帝稱晉王,改元建武,時愍帝尚在匈奴庭,元帝亦未正位稱帝,故沈約志例稱晉愍帝建武元年。今仍其例,改作晉愍帝建武元年。

建虎

[28] 建武避諱元号 (y~4009)。

[20] 三國遺事/卷第一 - 维基文库,自由的图书馆, , https://zh.wikisource.org/wiki/%E4%B8%89%E5%9C%8B%E9%81%BA%E4%BA%8B/%E5%8D%B7%E7%AC%AC%E4%B8%80

東晉中宗建虎(丁丑)

[21]

建武 (後趙)

[6] 創価大学・創価女子短期大学学術機関リポジトリ (NetCommons著, ) https://soka.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=39086&item_no=1&page_id=13&block_id=68

建武五年鏡について

建武 (日本)

[7] 後醍醐天皇の年号。

See 建武の新政

[2] 長崎大学学術研究成果リポジトリ, NetCommons, https://nagasaki-u.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=24247&item_no=1&page_id=13&block_id=21 PDF 8ページ

「建武癸酉」

縫武

[49] 縫武 (y~4190) の用例が日本で1例知られています。

日時事例

[40] >>337 にこの鈴と思われる白黒写真がありますが、銘文は判読不能です。 ウェブ検索でも写真は見当たりません。

[32] は注意してみると偏を付けたようにも見えます。 >>337

[36] 𦂩中華民国の「內政部戶政用字」として CNS 11643 に追加され、 Unicode にも追加されました。 >>37 つまり台湾人名にあると思われますが、 それ以外はウェブ検索などでもこれといった用例の説明が出てきません。

[31] >>337>>30 について、銘文から楠木正成の冥福を祈って作られたものに間違いないと断定します。 しかし延元元(1336)年丙子5月25日に死去した楠木正成武2(1335)年乙亥1月1日は一致しません。 >>337

[33] 元号をわざと1年間違えて月日も違えながらも、 楠木正成であることには相違ないと、地元では十分承知していたといいます。 >>337

[34] >>337 は聞いたことのない偽年号を使い表向き誤魔化したのは、 謀反人等支配権力に憚る人を祀る場合の常套手段だとします。 そして元和の13天の事例や偽名で墓に葬った事例をいくつか挙げます。 >>337

[35] >>337 はまた、偽年号を使って支配者を憚る必要があった足利政権の時代の作であるとし、 「乙亥」は制作年ではなく没年を建武2年と合わせるための偽作だろうとしています。 >>337

[43] 一方社伝では、 建武2(1335)年元旦に新田義貞が戦勝祈願のため楠木正成の鈴を奉納したとされます。 >>42, >>41 銘文には新田義貞の名が無いので、他の伝承によると思われます。

[44] 銘文は楠木正成を追悼するものと解釈するより、 楠木正成の持ち物のだったと解釈する方が自然に思われます。

[45] 史実かどうかはともかくとして、 楠木正成の持ち物だったのを、 生前の建武2年1月1日付で奉納していた、 と銘文が主張していると読めば、 日付と死去の日はそもそも無関係で、 何の矛盾も隠蔽もないことになります。

[46] 隠蔽工作だとすれば、命日をわざわざ不自然に書き換えているのに、 楠木正成の名前がそのまま書かれているのは極めて不可解です。

[47] に置き換わったのは、 何らかの意図があったとも誤記とも断定できるだけの材料がありません。

[48] 建武から離れた時代になって、何らかの資料から書き写した時に、 伝写の過程で文字が書き換わっていたその資料 ( 秘伝書の日時 ) の誤りを引き継いだとも考えられますが、 確証はありません。

[51] この鈴が作られた時代や銘文が書かれた時代はよくわかりません。

[50] >>337 のいう偽年号がどのようなものかはいまいちよくわかりませんが ( 偽年号 )、 ともかく、 縫武私年号研究者には知られていなかったようで、 令和時代に至るまで私年号異年号の一覧に掲載されてこなかったようです。

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