嘉應

嘉応

元号名

嘉广

嘉广

賀応

[85] 賀応が1例知られており、 嘉応の異表記と考えられています。

用例

日時事例

[30]経塚文化の頃に盗掘があり、 直後に残余を発掘して金仙寺に所蔵されているところです。 >>37, >>26

[53] 昭和13年3月10日に重要美術品に認定されました。 >>51, >>57

[75] 昭和37年2月2日に文化財指定されました。 >>73

諸説

[88] これまでに報告されている用例は1例のみです。

[89] 様々な文献が紹介していますが、 年代を比定しているものはみな嘉応に同定することで一致しており、 通説となっています。他の説は見当たりません。

[90] 嘉応への比定は、 干支年が一致すること、 同音であること、 干支年表記形式媒体の年代、 といった根拠によります。 いずれも特に問題は指摘されておらず、 断定して構わなそうです。

[91] 表記の理由については、物証のようなものはありませんが、 他のを使った元号でも同様の表記揺れがみられることとあわせて検討するべきでしょう。 賀と嘉

[92] 意図的な選択とする説や (>>16) 経筒という人目に触れない媒体であること (>>197) の指摘もあるものの、物証がないだけに慎重になるべきとも思われます。

研究史

[86] 文化年間頃、 >>5 が出土しました。 >>30

[87] その後出土物としてしばしば紹介されるようになりました。

[72] の史料集は、 >>5 を紹介して、 「 ((嘉)) 」 (明朝体) と注釈して、 嘉應二年に掛けています。 >>71

[60] の書籍は、 >>5 を紹介して、 「 ((嘉)) 」 (明朝体) と注釈し、 嘉應2(皇紀1830)年と説明しています。 >>66, >>58


[8] 昭和42年の 日本私年号の研究 は、 異年号のうち私年号とは異なる分類である同音異字年号の1つに >>5 を紹介し、 次のように述べています。 >>4

[18] なお、それに先立つ昭和39年の論文は、 嘉応同音異字の異年号として情報のみ記載しています。 >>17


[65] の書籍は、 >>5 を紹介して、 「 ((嘉)) 応二年(一一七〇)」 (明朝体) と説明しています。 >>64

[43] の書籍は、 >>5 を紹介して、 「賀應 ((ママ)) 」 (明朝体) と注釈しています。 >>42

[55] の地域史は、 >>5 を紹介して、 であるとし、 干支を細字で割書きするのは藤原時代多いとしています。 >>54

[33] の書籍は、 >>5 を紹介して、 「 ((嘉)) 」 (明朝体) と注釈するなど嘉応に比定しています。 >>31

[50] の書籍は、 >>5 に言及して、銘文を 「 (ママ) 応二年 (一一 七〇年) 三月十一日」 (明朝体) としています。 >>49

[48] の書籍は、 >>5 を紹介して、 「 (ママ) 」 (明朝体) と注釈しています。 >>47

[78] の史料集は、 >>5 を紹介して、 嘉応2年と説明しています。 >>76

[68] の論文は、 >>5 を紹介して、 (一一七〇) と注釈しています。 >>67

[70] の書籍は、 >>5 を紹介して、 「 () (おう) 二年(一一七〇)」 (明朝体) と説明しています。 >>69

[82] の地域史は、 「賀応二年 (一一七〇)」 (明朝体) と説明しています。 >>81

[20] の地域史は、 >>5 を紹介して、次のように述べています。 >>19

[96] 付で公開 (実日付不明) されている Webページは、 >>5 を紹介して、時期を 「1170 」 としています。 >>95

[94] 付で公開 (実日付不明) されている Webページは、 >>5 を紹介して、 「賀応二年{歳次/庚寅}三月十一日」 に 「(一一七〇)」 と注釈して、 「嘉応2年(1170)」 と説明しています。 >>93

関連

関連

[1] 図書類目録 其2 (旧松浦家蔵書), 松浦史料博物館, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/2939612/1/37?keyword=%E5%98%89%E5%B9%BF (要登録)

[2] >>1 嘉広二年十月十六日建春門院北面歌合

嘉応の誤植か。

メモ