延寛七年

延寛

[43] 延宝のことを延寛と誤った事例がそれなりにあります。

[44] 多くは近代明朝体活字の出版物です。

[45] 古文書にあるとの情報もありますが、詳細不明です。

[46] 字画のはっきりしないくずし字だとわかりにくいですし、 のようにみえても翻刻しているケースもありそうです。

[3] 6756_20221202150303-1.pdf, , http://www.pref.kagoshima.jp/ab23/reimeikan/siroyu/documents/6756_20221202150303-1.pdf#page=202 左下

[4] >>3 系図の「時喜」の左に「延󠄁寬七年十一月廿三日生」とある。明朝体

親は寛永生まれ、正徳死。兄弟(右側なので普通に考えれば兄)は延宝4年生まれ、元禄死。 子は元禄生まれと宝永生まれ。

[5] 寛永, 正保, 慶安, 承応, 明暦, 万治, 寛文, 延宝, 天和, 貞享, 元禄, 宝永, 正徳

[6] の誤記ないし誤植と理解するのが最も整合的。

[13] 草津町史, 佐藤曽平, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1032079/1/42?keyword=%E5%BB%B6%E5%AF%9B%E4%B8%83%E5%B9%B4 (要登録)

[14] >>13延󠄅寬七年末三月󠄃十五日」付文書。明朝体誤植ないし誤読だろうから、十二支が一致するので延宝とみていいだろう。

[7] 伊達郡誌, 金沢西石, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/949770/1/29?keyword=%E5%BB%B6%E5%AF%9B%E4%B8%83%E5%B9%B4

[8] >>7 前後から延宝と考えて間違いないが、3箇所一貫して「延󠄁寬」とある。 明朝体

[9] 長崎年表 第1巻 (永正17年(1520)-延宝8年(1680)), 小沢敏夫, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/3430718/1/115?keyword=%E5%BB%B6%E5%AF%9B%E4%B8%83%E5%B9%B4 (要登録)

[10] >>9 前後から延宝の可能性が高い。 明朝体

[11] 日本歴史の旅 下 (中国・四国・九州), 泰山哲之, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/2974866/1/60?keyword=%E5%BB%B6%E5%AF%9B%E4%B8%83%E5%B9%B4 (要登録)

[12] >>11 西暦併記から延宝誤植とわかる。明朝体

[15] 芭蕉紀行全集 : 新註, 沼沢竜雄 校註, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1213634/1/157?keyword=%E5%BB%B6%E5%AF%9B%E4%B8%83%E5%B9%B4 (要登録)

[16] >>15延󠄅」 「延󠄅」 「延󠄅」 が混ざっている。誤植なのか原本か何かに忠実であろうとしたのか。 誤植かな。

[22] 鎮守の森 : 日本の歴史 第4巻 (岩手), 国文社, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/12261439/1/79?keyword=%E5%BB%B6%E5%AF%9B%E4%B8%83%E5%B9%B4 (要登録)

[24] >>22 盛岡藩とあるが、盛岡藩誤植とすると >>23 の延宝7年の事績と辻褄が合う。 明朝体

[25] 綜合日本史大系 19, 内外書籍, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1920391/1/81?keyword=%E5%BB%B6%E5%AF%9B%E4%B8%83%E5%B9%B4 (要登録)

[26] >>25 直前に延宝3年がある。誤植か。明朝体

[27] 薩藩家庭教育の研究, 鹿児島県女子師範学校, 鹿児島県立第二高等女学校, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1462231/1/116?keyword=%E5%BB%B6%E5%AF%9B%E4%B8%83%E5%B9%B4

[28] >>27 少し潰れてわかりにくいがおそらく延寛と書かれている。明朝体木村探元という人物で通説によれば延宝生まれ。

[29] 日本食糧史考 下巻, 最上宏, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9546303/1/237?keyword=%E5%BB%B6%E5%AF%9B%E4%B8%83%E5%B9%B4 (要登録)

[30] >>29 皇紀併記や前後から見て延宝誤植か誤記。明朝体

[36] 信濃史料叢書 上巻, 信濃史料編纂会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9537177/1/229?keyword=%E5%BB%B6%E5%AF%9B%E4%B8%83%E5%B9%B4 (要登録)

[37] >>36 前後から延宝だろう。明朝体

[38] 鳥取藩史 第5巻 (民政志), 鳥取県, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9573524/1/108?keyword=%E5%BB%B6%E5%AF%9B%E4%B8%83%E5%B9%B4 (要登録)

[39] >>38 引用部の前にある日付。文書中とも思われない書き方だが引用者が書いたものなのかよくわからない。その直前の本文には延宝とある。誤植か。明朝体

[40] 古文書に延寛六年とあったのですが - いつのことですか。寛延なら... - Yahoo!知恵袋, LY Corporation, https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12239709902

[41] >>40 延宝説がベストアンサー。その「古文書」のことも、判断の理由も情報皆無。


[17] 滋賀県八日市町史の研究, 郷土研究会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/2988875/1/102?keyword=%E5%BB%B6%E5%AF%9B%E4%B8%83%E5%B9%B4 (要登録)

[18] >>17 明朝体


[33] 慈覚大師研究, 福井康順, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/2982521/1/383?keyword=%E5%BB%B6%E5%AF%9B%E4%B8%83%E5%B9%B4 (要登録)

延󠄁寬七年晁辨開基」 (明朝体)

[34] >>31 >>32 の現在伝わる沿革と整合せずよくわからない。

[35] 「晁辨」についてはGoogle検索でも国立国会図書館デジタルコレクション検索でも出てこない。


[1] 境内でひと休み「独狐八幡宮と宮舘稲荷神社」ーつがるみち280 -のんびりとじっくりと!- (korekarada, , ) http://madamada888.blog.fc2.com/blog-entry-362.html

この八幡宮の由緒については、

【御祭神:誉田別尊 創建の年月は明らかでないが、 社堂縁記修験道由緒に、 「独狐村、 正八幡宮、 旧舘を松笠森と名つく。 寛永十七年、 同村、 小右ェ門、 氏神に勧請す。 円光坊。」 とある。 弘前在浦々社堂帳には、 「独狐村八幡宮、 延寛七年」 とある。 明治六年四月、 村社に列せられる。※青森県神社庁HP】とあり、ここでも、その縁起と修験道との関係が述べられています。かつて、辺り一帯に修験の道があり、この社もまた、中心となる役割を持っていたようです。

[2] 独狐八幡宮 (弘前市独狐) : くぐる鳥居は鬼ばかり () https://yuki.liblo.jp/archives/18015797.html

青森県神社庁によりますと、社堂縁記修験道由緒に「独狐村、正八幡宮、旧舘を松笠森と名つく。寛永十七年、同村、小右ェ門、氏神に勧請す。円光坊。」とあります。また、弘前在浦々社堂帳に「独狐村八幡宮、延寛七年」とあります。

[42] これ以上詳しい情報がなく比定しかねる。