[1] 日本の江戸時代の東北地方北部の藩には、 12月が小の月のとき、 大の月に変更する私大 (南部の私大 >>51, 津軽(の)私大 >>49, >>70) という制度がありました。 本来の1月1日が12月30日とされました。 1月のいずれかの日を省いて調整していました。
[392] 南部藩では、 12月が小の月のとき、 大の月に変更する、 つまり本来の元日を大晦日とし、元日をその翌日とすることがありました。 これを私大といいました。 >>393
[21] 江戸時代に日本全国 (本土) の暦が統一され、 違反が取り締まられるようになってからも継続されました。 当時から珍奇な風習として知られ、公然と行われていました。 >>540
[23] 「私大」は私的に大の月としたもの、を意味していました。 >>540
[58] 私大という呼称は江戸時代から現地にありました。 18世紀には既に使われていたようです >>49, >>125, >>126。
[32] 私大は年末年始にかけて行われるため、いつ行われたという記述には注意が必要です。 12月が延長された前年で言うことと、 朔日をずらして日をスキップして調整された翌年で言うことがあります。
[12] 元禄3年以後1/19の省略が定例となりました。 >>402 付紙
[34] 南部藩の公用の記録ではから私大が継続していました。 >>540
[63] 盛岡藩の日記 「旧臘雖為小月依御佳例以小為大故以二日為元日」 >>15
[36] 当時の記録の調査によれば、 武家では1月19日を省略しました >>35, >>15。 民間では1月10日を省略しました。 >>35
[395] 日本国岩手県盛岡市の県立図書館所蔵の公務記録に、 正徳4(1714)年12月に先例に従い大の月とし晦日戊戌、 正徳5(1715)年正月朔日己亥となり、 正月18日丙辰、正月20日丁巳と19日を飛ばすことで調整したと書き残されていました。 >>393
[3] 民間では1/10を省略する慣習が続いたともいわれます。 それが本来のしきたりだったのかもしれません。 >>402 p.32, p.170
[64] 民間では1月15日より前に戻されましたが、 小正月の満月の日を重視したといわれます。 >>15
[76] 盛岡藩の分藩盛岡新田藩 = 七戸藩の状況は不明です。
[41] 八戸藩は1月21日を省略しました。 >>540, >>15
[42] 本藩の盛岡藩に対する遠慮からなのか >>540 といわれます.
[43] 津軽藩の編年史書封内事実秘苑によると、 、 津軽信政が大阪冬の陣から帰城しましたが、 年末近いため12月小を大に替えました。 以後数年これに倣いました。 >>49, >>50, >>540
[44] その後の記録はなく、短期間行われたと考えられています。 >>540
[46] 最上徳内の蝦夷草紙によると、 18世紀後期の松前地方では私大が行われていました。 >>134, >>126, >>540
[62] 1月19日から本来の暦日に戻すことになっていましたが、 商人は勝手次第だったので、混乱を生じたようです。 >>540
[66] 盛岡藩では藩主南部重直の時代に廃止された >>397, >>16 とする説がありますが、 実際には逆に現存最古の実施記録の時代です。
[80] 南部藩参考諸家系図 第3巻, 星川正甫 [原編], 前沢隆重 他編, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/12209156/1/297 (要登録)
[31] 由来には諸説あります >>393, >>540 が、 南部氏の祖先が年始の準備が整わず正月朔日を遅延させ、 以後その先例に倣ったとするストーリーは共通しています。
[28] 10月、 日本甲斐国南部郷の南部光行は、 鎌倉幕府から給された新領の日本陸奥国糠部へと、 家臣従僕含め73人で6艘に分乗して海路で出発しました。 12月28日、 八戸浦に到着しました。 新年を迎える準備が整わず、 12月小を大に替えました。 >>51, >>24
[394] 藩祖が戦陣からの帰途、 12月小の月の29日に移動中で年末年始の儀式に間に合わなかったため、 大の月に変更し、滞りなく新春を迎えました。 >>393
[30] 藩主の遠祖が甲斐から陸路で移動しました。 日本陸奥国岩手郡安太多良山のほとりで戦勝し、 にわかづくりの城で越年しました。 新年を迎える準備が整わず、 12月小を大に替えました。 >>53, >>29
[47] 建久2年は12月大、閏12月小でした。どちらの伝承も12月小としていて、 正確性には疑問が持たれます。 >>540
[65] 南部光行が城下に入るのが1月2日になることから、その日を1月1日に合わせたのが始まりとする説 >>15 もありました。 ストーリーの省略による誤伝が疑われます。
[59] 松前や蝦夷地に滞在した最上徳内は、 海が荒れて新年までに民間に暦が届かないことが多かったため生じた慣習ではないかと推測しました。 >>125, >>126
[60] 出羽国出身の最上徳内は東北地方北部にもこの習慣があることを知らなかったのでしょう。
[61] 12月の長さ1日の差が暦本の到着にそれほど影響するとも思えず、 前年暦書から明らかな正月朔日の位置をずらす意義も感じられません。 (暦書がないとわからないのは2月以後の位置です。) この説は成り立ち難いのではないでしょうか。
[67] 柳田国男 雪国の春, , https://www.aozora.gr.jp/cards/001566/files/54403_54217.html
この寛政四年の十月始めには、外南部の奥戸の湊に上陸した。それから二年半ほどの間が、下北半島の小天地の生活であった。この地方の正月記事は幸いに「奥の手振」という寛政六年のものが、ほとんどこれをわれわれに伝えんとして用意しておいたかのごとく、画も文章も完備して残っている。奥州の果まで来てみると、いよいよ盆と正月との二つの行事が、もとは毎半年にくり返された同じ儀式であったことがわかる。南部には私大があって一日ずつおくれ、七草はすなわち八日の日の行事であった。十一日はやはり仕事始めで、
[69] 天鐘(1月15日) – デーリー東北デジタル, 2021年1月15日 6:00, https://www.daily-tohoku.news/archives/53816
「南部の私大」。私大は私立大学の略ではなく「わたくしだい」と読む。「旧暦12月が小の月の場合、大の月と見なして元日を1日遅らせる」という微調整した南部の特別な暦のことだ
[71] 帆船ハッカさんはTwitterを使っています 「南部の私大、実のところ松前とかでもやっていたとか、一揆の日付が伊達側と南部側で違うとか、武士階級とそれ以外の階級で日付を元に戻すタイミングが違っているとか(それトラブらなかったんか?)面白い話あって好き。」 / Twitter (午後10:45 · 2021年6月6日 , ) https://twitter.com/kotosakikotoko/status/1401535809480626179
[74] 5c1af0e35062c.pdf, , https://www.plib.pref.aomori.lg.jp/manage/contents/upload/5c1af0e35062c.pdf
[75] https://iwate-u.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=11455&file_id=36&file_no=1 PDF 9ページ
[77] 春夏秋冬 暦のことば, , https://www.taishukan.co.jp/item/shunkashutoukoyominokotoba/index.html
- 冬
- 暦跋、酉の市、勤労感謝の日、きしく、臘月、私大
[78] 禁忌習俗事典 タブーの民俗学手帳 - 柳田国男 - Google ブックス, https://books.google.co.jp/books?id=r-klEAAAQBAJ&pg=PT52&lpg=PT52&dq=%22%E7%A7%81%E5%A4%A7%22
[79] かさはら ひろし 1月13日 かんだらのどんがらじるだとうちゃんや | 幼児・小学生・中学生・高校生一貫教育 伝統と実績のキタン塾, https://www.kitanjuku.com/blog-kitan/7735/?pare_cat=blog-kitan&view_cat_id=11&date_archive=1