[15] 中山忠能日記 第二, 日本史籍協会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1920193/1/46?keyword=%E6%94%B9%E5%85%83 (要登録)
[88] 岩倉具視関係文書 第3, 大塚武松, 藤井甚太郎, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1075240/1/27?keyword=%E6%94%B9%E5%85%83
- [90] 去年、甲子改元で「元治」に改元された。
- [91] しかし「元治」の二字は、古来保元の乱・平治の乱の2度の乱と結びつけて語られてきた。
- [92] そのため、この年号はまったく「乱徴」、つまり乱世の兆しだと思っていた。
- [93] 去年中にも改元を取り沙汰する声はあったが、一年に二度改元する例がないので、そのまま過ぎた。
- [94] ところが去年七月に長州征伐、冬には北国浪士らの事件があり、やはり年号の乱徴に大いに相当すると考えた。
- [95] そこで極内々に意見書を差し出したところ、相手は大いに驚き、早速取り計らった。
- [96] 去る十五日に改元伝奏が仰せ出され、来月中に改元となるらしい。
- [97] 自分としては、元治の二字は不吉な号であり、改元はめでたいと思う。
- [98] 年号は実に大事なことなので、年号が変われば人心も改まり、自然に天下泰平になるのではないか。
[99] 元治元年未成改元 : >>93 によると、元治元年の改元後には早々にも (おそらく) 朝廷内で改元の機運の高まりがあったものの、 さすがに1年に2度の改元は前例がないと (厳密にはこれは誤り)、 実施にはいたらなかったようです。
[12] 大里村・中里村庄屋史料, 前山博 校注, 二里町誌執筆委員会 編纂, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/13284037/1/77?keyword=%E6%94%B9%E5%85%83 (要登録)
[13] 長崎幕末史料大成 2 (各国往復文書編 第2), 森永種夫 校訂, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9769670/1/114?keyword=%E6%94%B9%E5%85%83 (要登録)
[86] 筑前原田宿 : 歴史資料調査 1994, 筑紫野市教育委員会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/13175128/1/104?keyword=%E5%B9%B4%E5%8F%B7%E6%94%B9%E3%82%8B (要登録)
[14] 栃木県史料所在目録 第18集 (塩谷郡 3 栗山村・氏家町), 栃木県立文書館, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/12157569/1/49?keyword=%E6%94%B9%E5%85%83 (要登録)
[87] 双葉町史 第3巻 (資料編 2 近世資料), 双葉町史編さん委員会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9644812/1/294?keyword=%E5%B9%B4%E5%8F%B7%E6%94%B9%E3%82%81 (要登録)
[27] 小泉蒼軒日録 下巻, 石川新一郎, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/13205456/1/134?keyword=%E6%94%B9%E5%85%83 (要登録)
○五月小乙未朔「十三日芒種「廿八日夏至中「六日井堀さひらき吉「十八日壬子入梅「廿日
甲寅田植吉「廿二日同上「廿八日同上 「朔日快晴三枚潟太郎右衛門・小須戸久右衛門御呼出ニて着、名主良太郎付添登ル「二百 太郎右衛門外壱人独御礼被仰付御礼廻り、夜宿ニて祝盃振舞名主益太郎も出「五日節句快 晴「六日快晴、四月十八日年号慶応与改元被仰出候并毛利大膳父子悔悟之体無之ニ付、御 征伐被遊候ニ付五月十六日御進発被遊候旨御触出候旨、当三日町方へ御達有之候「九日癸 卯晴雨不定「十日曇後雨降
[20] 日本越後国在住の小泉蒼軒の日記に、 次のような記述があります。
出雲国人永見内蔵允申
長州ニ而去年中年貢半 納者実説、其前年も有 之と申ハ虚也、年号改 元之風聞も虚説也と十 三日申来
[22] すなわち、 出雲国の永見内蔵允からの慶応元(1865)年閏5月13日の情報によると、
とのことです。
[42] これだけでは曖昧ですが、素直な解釈として考えられるのは、
... という意味でしょうか。
[44] 「改元が長州で行われる/た」という噂なのか、「改元が全国で行われる/た」 という噂なのか、どちらとも取れますが、3項すべて長州事情の噂と考えた方が自然でしょうか。
[45] 4月に慶応へと改元があり、 5月には全国へと伝達されたばかりでした。 にも関わらずまたも全国で改元があるとは不審ですが、 政情不安によりまたも改元があるとの噂とも考えられますし、 慶応改元自体とも考えられますが、 そうだとすると誤りという説明と矛盾します。 慶応改元のことではあるものの、異なる元号名の噂という可能性もあるでしょうか。
[46] 慶応改元と同時に第二次長州征伐が発表され、いざ開戦という時期にあたり、 そのことは全国へと既に伝わっています。長州の事情が越後国で噂されるのも、 そうした背景によるものでしょう。越後国に限らず、全国どこでもおそらく同様だったのでしょう。
[80] 「長州にて改元」説なら、朝敵となった長州藩では、 朝廷の元治 → 慶応とは違う独自の元号を使い始める/た、 という噂が出回っていた、ということになるのでしょう。
[78] 出雲国の永見内蔵允の詳細は不明ですが、 慶応元年、2年頃に越後国で出雲国大社の永見内蔵允の滞在の記録があります >>79。出雲大社の宗教事業の一貫で越後国を巡りながら、 西国で見聞きした情報を東国へと伝えていたのでしょうか。
[84] 当時の情勢を鑑みれば、こうした噂は越後国以外でも流れていた蓋然性が高く、 記録が他でも残されている可能性があり、今後の發見が期待されます。
[213] 元治から慶応の改元は、 長州藩が蛤御門の変で京都侵攻に失敗した後でした。 日本政府 (江戸幕府) 首脳で長州藩にとっての仇敵に徳川慶喜がおり、 慶応は「慶喜に応じる」と解釈できるということで、 長州では改元されなかったといいます。
[132] 朝廷に軍事侵攻し失敗した長州藩は、当時、朝敵でした。 新元号を奉じなかった長州藩の人々にも、その自認があったのでしょう。
[1] 昭和時代初期の研究者の論文では、 関ヶ原以来の遺恨が元治元年の長州征伐で爆発し、 防長の諸記録に 「元治四年」 「元治五年」 とみられることがあるのはそのためだと説明されています (が具体例は示されていません)。 >>26
[38] 昭和時代初期の社会学者で日本国山口県出身の河村只雄は、 延長年号事例 (>>34, >>37) を紹介し、 開戦前の意気や、 慶喜に応じることになるから気に喰わぬと殊更に意地張ったものだと推測しました。 >>33
[51] 昭和時代中期の地元の教育関係者は、 延長年号事例 (>>49) を紹介し、 慶応は慶喜に応ずる意味であるため、 意気盛んな様が窺われるものとしました。 >>48
[70] 美東町教育委員会の古戦場案内看板には、 時の将軍慶喜に応じないとの心意気が窺われるとあります。 >>68
[73] 昭和時代後期の地元の研究者は、 当時の将軍は慶喜で「慶喜に応ずる」のは気にくわぬために延長年号を使ったとしています。 >>71
[61] 平成時代のウェブページでも「慶喜に応じる」「慶喜に応じろ」 式の解釈は踏襲されています >>214, >>215. >>7。
[74] どこも似たような記述なのは同系統の資料に基づいているのでしょう。 検索で見つからない郷土資料、郷土史教材のようなものにも同じような記述があるのかもしれません。
[62] 「慶喜に応じる」との解釈はもっともらしいですが、 当事者の記録のような信頼できる出典が示されていないことには注意が必要です。
[75] 地元関係者による論述が多く、通史的、全国的な視座の研究者や元号研究者による検討がなされていないのは気になります。
[2] 中世の延長年号で指摘されているのと同様に朝敵には正式な改元伝達がなされなかった可能性もあり、検証が必要でしょう。
[34] 開戦時に長州藩の幹部が制作した 長防士臣民合議書 の日付が 「皇元治二年乙丑十有一月」 でした。 >>32, >>33
[35] 日本国内では省略されることが多い国名部に「皇」 と明示するのは異常な尊皇攘夷派だった長州藩の思想的背景が表れたものなのでしょう。
国家多難数祈 公朝誅内奸
攘外賊固非人力今慈丙寅八
月落小倉城得諸延明命寺以徒
大田駅奉祠前聊報 神助之萬分
奇兵隊
元治四年丁卯秋七月とあります。 >>52
と紹介されているものと、 銘文は少しずつ違っていてどれが正しいのかわかりませんが、 同じものを指しているようです。
[50] 日付は延長年号と干支年ですが、本文中には干支年だけが使われています。
[55] >>49 では「うつし」と中立的な書き方をしていますが、銘文にある通り、 長州藩が小倉藩領小倉城に侵攻して城下を占拠し (占領地は長州藩領に編入して明治に至る)、 戦利品として奪取して持ち帰って自陣地の神社に奉納したものであります。
[56] 銘文には国のため、朝廷のために戦ったようなことが書かれていますが、 事実は朝廷の定めた慶応の元号を奉じる小倉藩の石灯籠に、 朝敵の長州藩が朝廷の改元を無視した銘文を刻んで「上書き」 したもので、正反対です。
[58] 戊辰戦争で勝って官軍になったとはいえ、 さすがに改元の無視を正当化するのは難しいからなのか、 どの時代でもこの延長年号の銘文を肯定的に紹介するものはあまりないみたいです。
高杉晋作率いる奇兵隊が、慶応2年(1866年)8月、四境戦争(第二次長州征伐を山口県ではこう呼ぶ)小倉口の戦いで小倉城を攻略した際、城下の延命寺から戦利品として持ち帰った灯籠。 「元治3年 奇兵隊」と銘記されている。
実際には、「元治」は元年で終わり、「慶応」と改元されていたのだが、長州藩では、「慶応」を「慶喜に応じろ」の意味とし、「元治」の年号を使い続けた。
あん時、慶應じゃなく平成に決まってたら…。
長州に点在する「元治三年」とか「元治四年」とかの書類や石灯籠はなかったわけだなー。
(もともとそういう意味ではなかったのですが、長州は「慶應」=「慶喜に応じる」として嫌い、元治を使い続けることも多かった。
踊り場には石灯篭があって、これは高杉晋作率いる奇兵隊が、慶応2年8月、四境戦争の小倉口の戦いで小倉城を攻略した際、城下の延命寺から戦利品として持ち帰ったもので、灯篭には「元治3年 奇兵隊」と銘記されている。元治は本来は元年で終わり、「慶応」と改元されているが、長州藩では、「慶応」を「慶喜に応じる」の意味とし、「元治」の年号を使い続けたので、ここでは『元治3年』となってます。
[6] 「元治三年」「元治四年」「元治五年」で検索するとやたらとたくさん出てきます。 OCRの誤読も多いようですが。 長州藩だけでは説明がつかない気がします。 他の時代の元号の誤記や、 幕末の元号の誤記が多く混ざっています。 改元しまくりの悪影響を明治以降も引きずって誤記が誘われてるのでしょうか。 分析が待たれます。
[31] 綜合美良布文化史, 美良布第一尋常高等小学校, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1230813/1/155 (要登録) 左
「
[21] 盛岡市史 第4分冊, 盛岡市史編纂委員会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/3022995/1/90 (要登録) 左
「
[11] 都山流史, 都山流編輯部, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1212938/1/551 (要登録)
「
[59] 栃木県市町村誌, 栃木県町村会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/2997332/1/467 (要登録) 右中
天狗党が元治4年に転身。元治年間? 慶応4年?
[65] 七ケ宿町史 資料編 別冊, 七ケ宿町史編纂委員会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9569968/1/105 (要登録) 左ページ右
「元治四年四月」御用留。目録のみで内容不明。
[77] 新聞研究 (413), 日本新聞協会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/3360972/1/4?keyword=%E5%85%83%E6%B2%BB (要登録)
[23] 甲斐国社記・寺記 第1巻, 山梨県立図書館, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/2991215/1/374 (要登録)
「五」は「元」の誤記。
[8] 里のたより : 旭廓盛榮, [出版者不明], , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1085521/1/30 (要登録) 右
元治、文久、明治が並ぶ中で「
[10] 北陸史談会々報 (1), 北陸史談会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1601998/1/16 (要登録)
金沢藩士の幕末の動向。文久3年9月の「
[30] 城南紳士録 : 城南郡区町村誌・城南代表会社録, 関西報知新聞社出版部, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1037008/1/108 (要登録) 左下
「
[39] 原田二郎翁小伝, 三重県社会事業協会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1053238/1/21
元治4年 = 慶応元年。実際には元治2年が慶応元年。
[40] 能久親王御遺蹟建碑志, 北白川宮能久親王御遺蹟保存会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1688076/1/55 (要登録) 右下
元治4年4月7日改元して慶応元年。実際には元治2年4月7日に改元。
[66] ふるさとのかたりべ 第3集, 嘉瀬ふるさとを探る会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9539151/1/51 (要登録) 左
弁慶の文治4年4月18日付けの借用書とされるものの写しを含む「子正月」付け文書 (白黒写真、翻刻)。
解説文では元治4年甲子年の正月としている。