[2] 1系統のみ知られています。
[145] 封内名跡志は、 成立で郡奉行の萱場高寿が佐藤信要に編纂させた地誌。 観蹟聞老志 の改訂。
[146] 通俗封内名跡志 は、 封内名跡志 を簡略化したもの。
[79] 封内風土記 安永書上 は、 封内風土記 を更に改訂するための準備資料。
[148] 当条については 観蹟聞老志 の記述が後続の地誌でも継承されています。
[96] なお、平低重については、当条由来と思われるもの以外の情報が皆無です。
白象峯(ザウカミネ)普賢堂
在普賢堂村。後花園帝、永寧中、平低重、所建有寺。號白象山洞雲寺。傍有熊野叢祠。鰐口記銘曰、永寧十二年四月廿二日、平低重納之。
仏宇 一、普賢堂、名跡志・観迹聞老志共曰、後花園帝、永享中、平低重所レ建、寺號二白象山洞雲寺一、傍有二熊野社一、有二鰐口一、記曰、永寧十二年四月ニ十二日、平低重納レ之。
[31] いくらかの言及はありますが、それ自体にも問題があります。
[32] これまでに4組の用例が知られています。
[38] このうち、 >>73 >>74 は実物の現存を確認できないものの、 仙台藩の地誌に記述があります。
[33] >>71 >>72 は昭和42年の 日本私年号の研究 に記載がありますが、実物も、それに先行する資料も現時点では見つかっていません。 日本私年号の研究 は、 >>71 を千葉県の安国寺のもので実見につき典拠なしとしています (>>15)。 また、 >>72 を宮城県の普賢堂の過去帳に記載のものとしながらも、 安国寺のものと説明しています (>>46)。 過去帳によれば明和年間にまとまって出土した板碑とされる (>>48) ものの、昭和42年時点で既に実物は存在せず確認ができない (>>52) とのことです。 過去帳の出典は封内名跡志とされますが、 翻刻本の全文検索では記載を確認できません。 要するに 日本私年号の研究 の記述が錯乱していて、何が正しいのかわかりません。
[34] 永寧については、いったん不明な >>72 を除外し、 >>73 >>74 のみから考察する必要がありそうです。
[36] 永寧は永享に比定するのが通説となっています。 その理由とされるのが、
... です。
[60] このうち >>81 は修正の根拠が不明です。 >>83 は >>33 のため根拠としてここでは使えません (すると永禄 (や文永) が候補に入ってきます)。 >>84 >>85 >>86 は既知公年号に比定可能との前提では有力な傍証となりますが、 それが保証されなければ決定打となし得ません。
[37] これ以外に
... は重要な情報です。これは成立の 奥羽観蹟聞老志 が現存最古の普賢堂建立時期の情報で、 諸本で微妙に表現に揺れがあるため、原形を慎重に確認する必要があるとはいえ、 おそらく当初から同様の表現があると推測されます。
[39] その前提のもと、ここで「永寧」と後花園天皇とを結び付けたのが 奥羽観蹟聞老志 なのか、原伝承の段階で既にそうだったのかは不明ですが、 いずれにしても「永寧」 という不明な元号に後花園天皇と修飾語を付けることはないでしょうから、 当初は「後花園院永享中」のように書かれていた可能性が高いと言えます。 これは永寧が永享の転訛であることの強い根拠となります。
[67] 金石文では天皇名を書かないものが多く、 >>73 でも実際天皇名が書かれていたとはされていません。 縁起や地誌のような媒体ではじめて天皇名付きとされることが多いです。 だとすると、 この「作業」をした人が後花園天皇と元号との関係を知っていたということになります。 それは、
... のいずれかのはずです。 >>70 なら、永寧は記録の文字列上での転訛に過ぎないということになります。 >>68 >>69 なら、何らかの理由で誤情報が伝わり、 「公年号だと思い込んだそうでない元号」 が実用された時期があったことになります。
[66] 干支年の情報がないのは、永享との同定を確定させる上でのネックと言えます。
[77] 鰐口などの実物が所在不明なので、媒体の様式などの編年知識も使えません。
[56] また、 >>74 と >>73 (鰐口) は共に 奥羽観蹟聞老志 が現存最古の記録です。本書編纂時の取材に基づくのか、 先行する縁起類からの引用なのかは不明ですが、 鰐口の紀年と創建年に深い関係があると当時認識されていたことを示唆します。
[57]
ここで参考にできるのが
>>134 >>135
で、草書で書かれているため、永寧の寧が享のように読めないこともありません。
これ自体は比較的新しい写本ですし、寧らしさの方が強いので、
永享から永寧への変化に直接関係する史料ではありませんが、
これに近い書かれ方がされていたとすれば、永享が永寧に変化することも、
あながち有り得ないことではないと感じさせられます。
[59] いずれにせよ既知公年号・永享と仮定すれば各傍証は整合しており、 その前提を許してしまえば、この比定には問題ないといえます。 問題は、その前提そのものが近世の地誌一つの記録に依存し、 独立に担保されないことにあります。
[61] なお、 もし鰐口に合わせて永寧12年頃の創建とすると、 >>72 (永寧2年) は同じ永寧年間とはいえ、少し時期が早すぎることには注意せざるを得なくなります。 その他にも、これを遡る板碑群が (もし安国寺でなく普賢堂付近に) 存在していたとすると、少々考える必要が出てきます。 というのが当時の建築物の建設時期であって寺院としての創建ではないとか、 元々信仰の場だったとか、成立後に周辺から集められたとか、 説明のしようはありますが。
[97] >>71 (文命)、 >>72 (永寧) を含む板碑群について、 日本私年号の研究 の記述は錯乱しています (>>33)。
[98] >>72 と >>43 の2件は共に封内名跡志が出典とされていますが、 そのうち >>43 は昭和40年の先行論文で既に掲載があり、 昭和43年の日本私年号の研究にも掲載されています。 一方で >>72 は昭和43年の日本私年号の研究にのみ掲載があります。
[99] すると >>72 は昭和40年から43年の間に久保常晴の知る所になったと推測され、 同じ封内名跡志が出典とは少々不審に感じられます。
[100] >>72 (永寧) の出典が封内名跡志とするのは誤りで、 実は安国寺の過去帳だったとすれば、 >>71 / >>72 板碑群に関する問題は解消します。
[101] ただし、現存しない可能性が高い当板碑群を久保常晴が「実見」 したとの記述は不審です。板碑自体を「実見」したのではなく、 過去帳を「実見」したという意味だとすれば、極めて不親切な記述ですが、 他の掲載資料が見当たらない現状とも整合します。
[102] この推測が正しいとすると、普賢堂系の永寧の他に安国寺系の永寧が存在したことになり、 両系統がいかなる関係にあったか、という新たな問題が生じてきます。
[29] ところが、実見したとの説明が疑わしい (>>33) となると、少々不安が残る所です。
[30]
意図については、供養のため命に置き換えたとの推測があります。が、
日付をそのような表現の場として使う事例はあまり無いと思われ、
慎重に判断したいところです。
[58] 現存するか不明な史料を唯一の典拠とするものであり、 実物の文字列が忠実に伝わっていない可能性も含めて改めて検討するべきでしょう。
[150] 、 仙台藩の地誌 奥羽観蹟聞老志が成立しましたが、 >>43 >>120 の記載があります。
[149] 明和7(1770)年7月21日、 過去帳 によると >>40 などの石碑 (板碑) が出土しました。
[151]
近世、近代の仙台藩地誌の編纂や書写による諸本の系統を詳しく確認する必要はありますが、
>>43
>>120
の大多数が「永寧」で一部が享, 亨となっている状況から見ると、
書写・校訂者の一部は寧字を不審に思って訂正したものと推測できます。
[15] 昭和42年の 日本私年号の研究は、 >>9 (文命) を実見したとしています (実見につき典拠なしとして掲載されています)。 >>13
[16] それによると、所在地の安国寺の板碑は、 詳しくは永寧の項で触れる (>>26) もののの、 文永から永正が出土しており、 その間13年があり、 干支年が一致し、 元号名が同音なのは文明しかなく、 従って文命は文明であると結論付けられています。 >>13
[17]
また、
死者供養の塔婆であり、
明を命に代えたのは地方農民の単なる機智から生まれたものであろう、
と推測しています。
>>13
[19] 日本私年号の研究の分類では、 文命は異年号のうち、私年号ではない分類の1つである同音異字年号とされています。 >>13
[11] の板碑の書籍は、 私年号の解説において他のいくつかの事例と共に >>9 を簡単に取り上げ、 公年号の文明を表すとし、 公年号を誤ったか異字にそれほど違和感や正誤感を持たなかったための表記と思われる同音異字年号であって、 私年号からここでは除外する、 という扱いとしています。 >>251
[46] 昭和42年の 日本私年号の研究 は、 異年号のうち私年号ではなく一字異音年号に属するものの1つとして、 >>40 >>43 (永寧) を挙げて、 それぞれ、 であるとし、
永を冠するのは永享と永正[6] ここで、用例の出典はいずれも封内名跡志で所在地は宮城県の普賢堂としながら、 説明では曽谷の安国寺の解説から始まるという齟齬が見られます (>>31)。
[26] 文命の所在地と解説が安国寺となっており、 永寧の解説を参照しています (>>16)。
[64] 先行する昭和40年の論文では、 >>43 を同音異字の異年号表に永享として収録していましたが、 詳細な説明はありませんでした。 >>63
[21] 私年号ではないと分類されたためなのか、 一覧表の類への掲載例はほとんどありません。 >>20
[22] 中文版维基百科の表は、 公年号の文明の注釈として、 日本私年号の研究を出典に、 >>9 が文命と表記する、 「宮城縣三迫普賢堂所藏過去帳及鰐口銘」 が永寧と表記する、 としています。 >>18