文中

文中 (元号)

元号名

文仲

[94] 文中文仲と表記した事例が散見されます。

用例

日時事例

[105] 建徳3年は壬子で、十干が一致していません。

[19] の史料集は、 >>16 を紹介して、 「 ((中)) 元年」 (明朝体) と注釈しています。 >>15

日時事例

[31] 昭和37年・38年・39年の3度にわたり、千々和実西安寺を調査しました。 >>25

[27] 千々和実の論文は、 >>28 を紹介して、 文仲二年 (一三七三)南朝年号であり、菊池氏の根拠地だけに当然としています。 >>25

[34] の報告書では、 >>59 の第1字がの下にのような字形になっていますが、 切り貼りして作字したのがうまくいっていないのか、かすれてよくわからない形になっています。 従来「八月中旬」と読まれていた部分は「中二日」であると断定しています。 南朝年号である文仲を使っている点注目されるとし、 年表にも「文仲二年 (一三七三)」 (明朝体) と掲載しています。 >>32

[61] の史料集は、 >>28 を紹介し、としています。 >>58

[82] の地域史は、 >>28 に触れて文仲 (中) 二年 (一三七三)南朝年号五輪塔があり、 南朝の勢力下にあったことを知り得る、 としています。 >>81

[86] の報告書は、 >>28 を紹介して、 『西安寺』が「八月中二日」、 『九州』が「八月中□」とするところ、前者を採用したのであり、 後者は「中二日」が日次表現として余り見られないためと推測する、 としています。 >>83


日時事例

[23] の史料集は、 >>10 を紹介して、 「仲元 ((ママ)) 」 (明朝体) と注釈しています。 >>17


日時事例

[106] 南朝紀伝 = 南方紀伝 は、 江戸時代初期成立とされる史書です。


日時事例


日時事例

日時事例

[72] の書籍は、 >>67 を紹介して、 文中3年に掲載しています。 >>71

[70] 年号読方考証稿 は、 >>67 を紹介して、文中に掲載しています。 >>65

[78] の地域史は、 >>76 を文中2年に、 >>74 を天授元年に掛け、 >>63 >>67>>74 の注釈で紹介しています。 >>73


日時事例

[91] 付の Webページは、 >>88 を紹介して、 としています。 >>87


日時事例

[46] の史料集は、 >>1 を紹介し、 「 (マヽ) 」 (明朝体) と注釈しています。 >>44

諸説

[95] 劣勢だった南朝の元号である文中は、そもそも残存する用例数が少ないことを考えると、 文仲の用例数は意外なまでに多いと言えます。

[96] しかも大部分は同時代用例とみられるものです。

[104] うちいくつかは、同じ地域で文仲文中の混在が確認されています。 つまり、ある地域、ある勢力では文仲を使った、というような系統的な区別がなかったことを示唆します。

[102] ほぼ同時代の正仲の事例と共に、の区別意識が曖昧だった可能性が考えられ、 元号名以外も含めた同時代の漢字用法の検討が待たれます。

[103] 意識的な字の選択とみる説 (>>24) もあるものの、 全国で同時多発的に元号名の勝手なアレンジがなされるとも考えにくいところです。

研究史

[107] に触れたものは無いこともありませんが、 本格的な議論はほとんどされてきていません。

[3] 昭和42年の 日本私年号の研究 は、 異年号のうち私年号でない同音異字年号として >>1 を挙げて、 次のように述べています。 >>398

  • >>1
  • [4]宝篋印塔「文中二二年乙夘十一月」
  • [8] 文仲 = 文中、疑いを容れる余地なし
  • [24] 正中とした事例とあわせ、 動乱の時代にあってという精神的、徳高きものを求めるよりも より現実的な、親愛を標榜するものが求められたとみられる

[92] 日本私年号の研究私年号ではないと分類したためもあるのか、 私年号研究の文脈で取り上げられることはほとんどありません。

[93] ほとんどが何の根拠も示さず自明に文中であるように扱っています。

関連

正仲

紀年法

文中 南朝の元号 干支年 西暦年 北朝の元号
文中1建徳3壬子応安5
文中2癸丑応安6
文中3甲寅応安7
文中4天授1乙卯応安8 = 永和1

メモ