[1] 坂本林平は、 日本の江戸時代に、 日本近江国蒲生郡中之郷村 (現在の日野町) に居住していた知識人でした。
[18] 東桜谷志は生没年不詳としていました。 >>1080 p.311
[6] 本書は蒲生郡の地域史の書物でよく引用されています。 特に東桜谷志は歴史編でかなり多くの箇所で本書を引用、参照していました >>1080。
[15] 全文が刊行されて広く配布されたことはないと思われます。
[3] 平安記録 楓亭雑話や平安記録楓亭雑話 >>2 とされることもあります。
[5]
編纂の東桜谷志には、
資料名 年月日 付記 平安記録 文政年間(江戸中期) 中之郷 坂本林平 楓亭雑話 仝 仝
... とありました。 >>1080 p.13
[7] 2つの文献があるように見えますが、本文にある数箇所の引用のほとんどは 楓亭雑話でした。
[10]
ただし1箇所
[12] 森下太郎次は、 本書編集委員の1人で、 蒲生郡日野町大字中之郷在住でした。 >>1080 あとがき
[13] 本書には楓亭雑話の序文の一部の白黒写真が掲載されました。 >>1080 p.40 これが平安記録なのか、その他にも楓亭雑話を参照したのかは不明です。
[770] 昭和時代初期時点で日本国滋賀県蒲生郡東桜谷村大字中之郷の渡辺紋四郎が所蔵していた 鬼室集斯墳墓の事 が 近江日野町志 に収録されましたが、これは 楓亭雜話 の抜粋の形のものでした。 >>629
[9]
椿井文書研究で知られる馬部隆弘は、
「
[17] 本書は蒲生旧蹟考の後に書いたものらしく、 それを基に書き足していました。 >>1080 p.311
[19]
東桜谷志はその旨と共に著者の西生懐忠らと交友があったらしいとしていました
>>1080 p.311。
それ以外の根拠は示されておらず、実態は不明です。
坂本林平は鬼室集斯墓碑を西生懐忠らの捏造だと書いて批判していました。
[16] 伊能忠敬と交流があったことが知られています。 11月頃伊能忠敬らが日本近江国蒲生郡桜谷地域に来訪したときの記録が残されています。 それは20年ぶりの再会でした。 >>1080 pp.310-311
[20] 椿井文書の偽造者の椿井政隆は、 蒲生郡にもよく出現していました。 坂本林平ともたびたび出会ってやり取りをしていました。
[21]
坂本林平は椿井文書が偽作ではないかと楓亭雑話に書き残したりもしましたが、
信じてしまったこともありました。
椿井政隆に不信感を持ちながらも、
まさかその持ち込む文書のすべてが偽書だとは思いもしなかったのでしょう。
[4] 関連記事: 東桜谷志, 鬼室集斯墓碑, 大安寺資財録抜書, 近江国蒲生郡奥津保中之郷四ツ谷城跡之図, 大内時頼, 椿井文書, 人魚塚