[584] 日本国滋賀県蒲生郡日野町小野には、 人魚伝説に関係する石塔が2箇所ありました。 1箇所は鬼室集斯墓碑で、 もう1箇所は少し離れた地点の四角柱でした。
[2115]
江戸時代、
鬼室集斯墓碑銘文の発見前に当地を訪問した司馬江漢は、
人魚塚・人魚墓と書き残しました。
当時現地でそう呼ばれていたと考えられています >>2102, >>2114, >>2。
これが鬼室集斯墓碑の現存する最古の記録でもあります。
[774] 当時蒲生郡中之郷村在住の坂本林平も、 現在の人魚塚と、 現在の鬼室集斯墓碑の2箇所を、 どちらも人魚塚と伝わる石だと明記していました。 >>770, >>1080 p.39 (平安記録 楓亭雑話)
[405]
江戸時代の西生懐忠は、
鬼室集斯墓碑を「
[312]
鬼室集斯墓碑を人魚塚と呼んだのは村外の村井古巌と司馬江漢の誤解で、
現地でそう呼ばれていたわけではないとする説もあります。
それによると、
村井古巌は人魚塚を調査しに行ったため先入観があり、
司馬江漢は村井古巌の影響下、
かつ誘導質問 >>549 で村民に案内させたのだといいます。 >>224
ただしこれは村井古巌がまず訪問し、
それを知った司馬江漢が追って訪問したとする説を前提としています。
その前提が成り立つかは不明です。
[585] 司馬江漢によると、次のようなやり取りがありました >>549。
[592]
村民Aが知らなかったことから、鬼室集斯墓碑は村内で広く知られたものでなかったことがわかります。
形を聞いてもわからなかったのですから、村民Aは人魚塚と呼んでいなかっただけでなく、
鬼室集斯墓碑の存在自体を知らなかった、少なくても失念していたのです。
集落を挙げた大々的な祭祀は当時行われていなかった可能性が指摘できます。
(実際祭祀は室徒と呼ばれる有力者グループだけで行われていました。
[593] 村民Bは鬼室集斯墓碑を知っていました。 村民Bがそれを人魚塚と認識していたのか、 形状から思い至ったのかは不明です。
[594] 四角塚は救世菩薩塚と言われていました。 誰に聞いたのかは明記されていませんが、 四角塚について村民Aと異なる認識が村内にあったことがわかります。
[595] 司馬江漢は、村民とのこれらのやり取りを踏まえて、 八角塚は人魚塚、 四角塚は救世菩薩塚と理解しました。 司馬江漢の記録を信用して良いのであれば、 誘導尋問して欲しい答えを導き出したようには思えません。
[811]
墓碑は、
「救世菩薩の墳」
「人魚塚」
「人魚墳」
「人魚墓」
と呼ばれていた >>2124 (>>795), >>23
とする説もあります。
四角塚ではなく墓碑を「救世菩薩の墳」
と呼んだとする根拠は不明です。
司馬江漢の著書で2つの人魚塚の図の間の曖昧な位置に
「
[207] 東桜谷志は、 現在の人魚塚を紹介した上で、 昔は鬼室集斯墓碑が人魚塚と呼ばれ、 現在の人魚塚は救世菩薩石と呼んでいたこともあり、 現在の人魚塚に村の子供が石を投げつける習わしがあったと書いていました。 >>76 p.707 (現在の人魚塚の白黒写真あり) 出典は不明ですが、司馬江漢と記載内容が完全に一致しています。
[890] 西宮は東宮に当たる天神社の摂社で、 天神社近くの人魚塚と共に、 西宮の八角柱も人魚塚だった、 とする説もあります。 >>23 2つの神社どちらにも人魚塚と呼ばれる石柱があることには注目するべきでしょう。 ただし西宮の人魚塚は境内にありますが、 天神社の人魚塚は少し離れています。
[190] 鬼室集斯墓碑との認識が広まったためなのか、 それ以後こちらを人魚塚と呼んだ記録は見当たりません。 人魚塚はもっぱらもう1つの方を指すようになりました。
[1] 学文路にある『人魚のミイラ』 | 【公式】高野山の納骨と永代供養 持明院「はすの会」, , http://www.hasunokai.jp/2011/11/15/%e5%ad%a6%e6%96%87%e8%b7%af%e3%81%ab%e3%81%82%e3%82%8b%e3%80%8e%e4%ba%ba%e9%ad%9a%e3%81%ae%e3%83%9f%e3%82%a4%e3%83%a9%e3%80%8f/