下総式長嘉板碑

長嘉

[24] 長嘉は、 日本の私年号の1つです。

元号名

[19] 「ちょうか」と読まれています。 >>7, >>17

用例

[22] 現在までに1例のみ報告されています。

長嘉板碑

[21] 日本国千葉県香取市 (平成の大合併まで香取郡山田町) に長嘉板碑があります。

[23]山田町 ( >>7) や現香取市が文化財指定しています。 山田町香取市平成時代千葉県長嘉板碑と呼んでいます。 >>17, >>7, >>14, >>91 昭和時代千葉県の資料や現在の香取市 Webサイト掲載の文化財の一覧表では下総式長嘉板碑となっています。 >>20, >>90 一般向けの呼称と文化財の登録上の名称の違いでしょうか。

日時事例

[59] 長嘉板碑は、 裏面がに供養塔として再利用されています。 >>7, >>14

[26] 板碑としてはの墓地調査で発見されました。 >>7

[39] 昭和50年代には銘文の「長嘉元年六月」をはっきり読み取れる状態でした。 久しく土中に埋もれていたと推測されます。 >>7

[60] 昭和55年にどのように発見されたのでしょう。 埋没 → 天保10年に供養塔 → 供養塔として立ったまま昭和55年、でしょうか。 それとも天保10年に供養塔 → いつの間にか埋没 → 昭和55年、でしょうか。

[40] 板碑私年号の専門家である千々和到 (当時東京大学資料編纂所助教授) が現地調査しました。 拓本により銘文が読み取られました。 >>7

[41] 拓本でも読み取れなかった文字が1字分あります。 >>7 おそらく年月のように明確に読み取れる部分から判読困難な部分まで部分ごとに状態が違うということなのでしょう。

[74] 香取市の広報誌掲載の銘文は、 読めていない部分が更に増えています。日付も最後のだった部分が判読不能となっています。 >>3, >>4 掲載から遠くない時期に市の担当の学芸員が調査したものでしょうか。

[75] これは劣化が進行した結果でしょうか。それとも慎重に読んだためでしょうか。


[27] 長嘉板碑と関係が深いとされる寛治板碑があります。

日時事例

[30] 寛治板碑は、 明治初年頃、新里稲荷台にあった平石を後田の農道に運び、 堀の橋にしたものと伝わります。 >>7, >>15

[31] 板碑であることが確認され、その後馬場930の墓地に安置されました。 >>7, >>15

[29] 寛治板碑は、 長嘉板碑と共に山田町指定文化財となりました。 >>7

[32] 昭和50年代の寛治板碑は、 寛治の紀年がかすかに読み取れる状態でした。 >>7

[42] 千々和到が現地調査しました。 それによると、摩滅が激しいものの、 ともともみられる1字が認められます。 >>7

[76] 香取市の広報誌記事では、 摩滅が著しく銘文は判読できないとされています。 >>3, >>4 掲載から遠くない時期に市の担当の学芸員が調査したものでしょうか。

[65] 平成時代後期の千葉県 Webサイトの文化財紹介記事 (出典は「山田町指定文化財」とのこと。) では、寛治板碑は 「寛治」 の紀年がかすかに読み取れると命名されたものの、 摩耗により確認は困難とされています。 >>15


[35] 寛治板碑と同じ墓地にもう1つ板碑があります。 >>7

日時事例

[38] 彫りは結構なもので、銘文は拓本によるとされます。 >>7 ここで彫りが結構というのは種字等の出来が良いということでしょうか。 銘文は直接判読できないほどの状態であるものの、 拓本から1字目以外は読み取れるということなのでしょう。

[43] 千々和到が現地調査しました。 >>7

[44] 他の2つと違って文化財指定がされておらず、町史でも寛治板碑のついで扱いです。 現地ではあまり重視されていないようです。

研究史

[77] 長嘉板碑寛治板碑は、 山田町指定文化財となりました。 >>3, >>4

[78] この指定は、 寛治平安時代公年号長嘉堀河天皇時代の私年号で、 平安時代板碑だと判断されたことによります。 >>3, >>4

[45] 長嘉板碑寛治板碑は、 年号に異論があるため、 千々和到に依頼しての現地調査が行われました。 >>7

[46] 千々和到は次のように結論付けました。 >>7

[55] □徳も推定が可能というなら千々和到は具体的に推定した可能性が高そうですが (しない理由がありません。)、どう推定したのかは書かれていません。

[57] 山田町史 は、 長嘉私年号であり、 だとしています。 >>7 根拠は述べていません。

[58] 寛治板碑であり、 後三年の役の供養塔であるとしています。 >>7 やはり根拠は述べていません。 また、2つの板碑には「一連の関係があると思われる」といいます >>7 が、 これにも根拠は述べていません。

[18] 山田町が発行した書籍の文化財紹介では、 長嘉がどの時代かには言及せず外形的事実のみが説明されています。 寛治板碑後三年の役の供養とだけ説明されています。 >>17


[68] 香取市の広報誌で長嘉板碑寛治板碑が紹介されました。 >>3, >>4

[79] この記事は両板碑の状態と銘文を説明しています。詳しくは説明がありませんが、 掲載と近い時期に実地調査したものでしょうか。

[80] この記事では、板碑平安時代のものとすることへの従来からの疑問を提示した上で、 当時知られていた他資料との比較で平安時代板碑と誤認することは無かったはずだ、 と文化財指定当時の調査を批判しています。 >>3, >>4

[81] その上で、他資料との比較で14世紀後半以降の作と思われるとしています。 >>3, >>4 ただしこれ以上の詳しい解説はなく、具体的にどのように検討して結論付けたものかは不明です。

[82] なお、記事執筆者や調査担当者の記名はなく、不明です。 問い合わせ先として示された生涯学習課の担当職員でしょうか。

[95] 中文維基百科は、 なぜか >>3 を出典にしながら長嘉平安時代私年号として掲載しています。 >>94 日本語を読めない人が記載したのでしょうか。

[16] >>3

「寛治」は、西暦1087~1094年の平安時代の年号です。「長嘉」という年号はありませんが、「長嘉紀年は私年号で堀河天皇御代西暦千百六年」と解釈され、両板碑は平安時代の板碑として昭和56年6月22日付けで山田町の指定文化財になっています。

これらの板碑の製作年代を平安時代とすることは、以前から疑問があったようです。「長嘉」という私年号の使用例は確認されていないこと。「寛治」の誤読など。年号をどう読むかということよりも、まず成形技法、全体の形、碑面のとり方、天蓋・瓔珞・蓮台の表現法など、当時すでに制作年代のわかっていた資料と比較検討すれば、平安時代の板碑とすることはなかったように思われます。

これまで年代の明らかになっている資料と比較すると、いずれも14世紀後半以降の作と思われます。

[6] 萬蔵院(千葉県干潟駅)のアクセス・お参りの情報 (曹洞宗)|ホトカミ, https://hotokami.jp/area/chiba/Hkmts/Hkmtstm/Dzrpm/49679/

萬蔵院本堂前の片隅に建つ長嘉板碑といわれている板碑は、これまで年代の明らかになっている資料と比較すると、いずれも14世紀後半以降の作と思われます。

[84] >>6 は営利企業が運営する寺社カタログサイトであり、 Webサイト上の記載事項から推測するに萬蔵院香取市は直接関与していないと思われます。 この部分は香取市の紹介文からの転載と思われます。 長嘉板碑は1つなのに「いずれも」と書かれているところにコピペの杜撰さがみえます。

[61] 千葉県 Webサイトの文化財紹介記事 (出典は「山田町指定文化財」とのこと。) では、長嘉板碑

「長嘉」の年号は存在しない。

私年号と言われるものと思われるが他の使用例がなく、年代を特定することは困難である。

と説明されています。 >>14

[66] 寛治板碑は銘文確認が困難であり、板碑の歴史からみて寛治との紀年は疑問視される、 と説明されています。 >>15

[62] また、長嘉板碑寛治板碑ともに 「専門家の調査により室町時代の建立と推定」 されているとあります。 >>14, >>15

[86] 具体的にいつどの「専門家」が行った推定かは不明です。 また、平成22年の14世紀後半以降という推定と同じものなのか、別物なのか、 別だとしたらどちらが新しい推定なのかも不明です。


[85] 、日本語版ウィキペディアの一覧に長嘉が追加されました。 >>431

[88] 出典は記載されていません。同時に複数の私年号が新規追加されていますから、 何らかの一覧資料からの転載とも思われますが、不明です。

[89] 時期は「室町時代」とされています。千葉県Webサイトに掲載されたものと同系統の情報源かもしれません。


[93] 発行の地図中心 607号板碑を特集しており、 長嘉堀河天皇の頃の私年号頃とし、 長嘉寛治は後刻と断定しています。 >>92 根拠は提示されていなそうに見えます。

[92] 雑誌/定期購読の予約はFujisan 雑誌内検索:【年号】 が地図中心の2023年04月10日発売号で見つかりました!, https://www.fujisan.co.jp/zasshi_kensaku/2377888/?q=%E5%B9%B4%E5%8F%B7

8. ..土寺15長嘉年間(私年号1106年頃)下総式長嘉板碑【市指定】※後刻(長嘉は堀河天皇頃の私年号で中世の後刻)香取市新里地区/萬蔵院81116寛治年間(1087~94)※後刻ら8年まで毎年1基造立..

9. ..長嘉は堀河天皇頃の私年号で中世の後刻)香取市新里地区/萬蔵院81116寛治年間(1087~94)※後刻ら8年まで毎年1基造立されましたが、以後の板碑分布の中心はつくば市筑波地区(旧筑波町)と稲敷..

10. ..寛治板碑【市指定】(年号は中世の後刻である)香取市新里字馬場930/墓地阿弥陀堂前17正嘉2年(1258)正嘉二年在銘板碑香取市谷中/個人18中世多宝院万福寺跡双式板碑【市指定】香取市谷中/個人..

メモ

[97] >>96 は出典不明。 >>10 のようにも思われますが、 >>10 には読み仮名がありません。 >>96 が勝手に追加したものでしょうか。それとも何らかの出典があるのでしょうか。

[8] 堀河天皇の元号で1106年は嘉承、その前は長治

[13] 板碑鎌倉時代ないし室町時代に作られたものだとして、 この私年号堀河天皇の時代をイメージして (もしかすると元号リストを誤読して) 作られたものだろうから、 遡及して設定した堀河天皇時代の元号というべきか。