[25] 観睿 (旧字体: 觀睿) なる元号名の用例が1つ知られています。
[38] 用例はこれまでに1例のみ知られています。
[39] 公年号の寛永の異表記とみなす説があります。 用例の著者の生存期間内ではありますが、 干支年がありませんし、傍証として製作時期を特定できるような他の史料も提示されていません。
[40] 寛永の異表記だとして、なぜ觀睿と表記されたかは、現在のところ不明とせざるを得ません。
[56] ところで >>3 には 「観世左近大夫 暮閑」 の署名があるとされます。観世黒雪がこれを称したのは、 からの間とされます。 寛永の頃には 「黒雪斎 暮閑」 と称していたことが確認できます。
[57] だとすると、 觀睿は寛永ではないか、 本人自筆の真書ではないか、 何か相当に特殊な事情で昔の名前で署名したことになります。
... と述べています。 >>1
[35] すなわち、私年号の可能性を指摘しながら、ただちに公年号の寛永に比定しています。 どうにも筆者の真意がわかりかねるところです。
[2]
また、自身の名前の音通というのは、寛と観が同音であるということでしょうか。
確かに改元で元号名が自分の名前と同音であったら、
親近感の一つでも覚えるかもしれませんが・・・。
睿と永には何の言及もありません。
[7] 名前が似ているから公年号を別字で書く、というのはどういう心の働きによるものか、 もう少し説明がほしいですね。「であろうか」と疑問形であり、 筆者自身も無理があるかもと思いつつ敢えて気づいたことを指摘したくらいの説かもしれません。
[8] ただ、そうであるならなぜ寛永であると断定的に書いているのかは謎です。 理由はわからなくても比定年には自信があったのでしょうか。
1612年2月には帰参を許され(《享和二年観世大夫由緒書》),観世左近大夫暮閑と称したが
この間,1621年夏から翌春のころには出家隠退して黒雪斎と称した。
[53] >>52 は
[43] >>42 は
[45] >>44 は
[47] >>46 は
[58] これらによると、寛永の頃にはもう 「観世左近大夫暮閑」 とは名乗っていません。
[59] 「観世左近大夫暮閑」 時代は徳川家に許され仕える身ではあったとはいえ、 かつてほどの重用はされなかったといわれています。
[60] 「観世左近大夫暮閑」 を名乗らず 「黒雪斎暮閑」 となったのは、 宗家当主の地位から完全に離れて出家隠退したことを意味します。 その後も作品の製作活動は継続しているものの、 それまでのような表立った活動形態とは異なると理解されます。