泰平

泰平 (山口)

[17] 泰平は、 日本の異年号の1つです。

用例

[18] 日本国山口県山陽小野田市千町ヶ原に伝わる 寝太郎伝説 >>19 に出現するのが唯一の用例です。

日時事例

  • [1] 日本国山口県厚狭郡山陽町石丸 藤本家所蔵文書
    • [2] 平成の大合併により日本国山口県山陽小野田市
    • [3] 山陽町史所載大略

      悪七兵衛景清の娘小野花の腹に伊志丸という者があり、元暦元年 (一一八四) 平家滅亡の時逃れてこの 地にしのびかくれたが、その時大判三枚、小判五百三拾両を持って来た。伊志丸には長男太良丸以下の 子があり、百姓をしていた。……

      時に五十九代宇多天皇の御世 (八八九〜八九七) に、鴨之庄に太良という人があった。その父は異人で あったので、妻が「あなたは何処の国の人ですか」と訊ねたところ「我は保食という者である。此の広 野に水が無いので、田地になす為に七瀬川の水を取り田を開くことを企てているのである。我が姿を見 よ」と言うたかと思うと、忽ち白狐の姿になった。その子が即ち太良である。

      泰平元年 (私年号、一一七二) より昼夜となく寝ていたので、厚狭の寝太良と言い伝えられていた。そ して魚梁瀬より溝手をつけて大井手を築き、千町ヶ原へ水を引いた。その水口から五尺結の稻を壱把あ て取って安楽に暮したので、荒神とも祭り稻荷大明神とも祭ったのである。

      六十二代村上天皇の御世 (九四七〜九六七) に、二百十一歳で死んだ。……

      >>9

[4] 宇多天皇の在位は正しくは仁和3(887)年8月26日から寛平9(897)年7月3日

[5] 村上天皇の在位は正しくは天慶9(946)年4月20日から康保4(967)年5月25日

諸説

[10] >>1寝太郎伝説自体の研究の中で紹介されていますが、 泰平紀年は特に注意が払われてきませんでした。

[21] 昭和時代の研究はこれを平安時代後期の改元デマ泰平に比定しており、 それ以後も無批判に継承されています (>>3, >>15)。

[12] 根拠なく確定した事実のように私年号と注釈されており、 年表類の私年号表か何かを盲信したものでしょうか。

[13] 確かに平安時代末期の元暦年号も登場しますし、 年代と年齢は「支離滅裂」 (>>8) で史実性が低いとなれば、 既知の泰平と同定しても不審に思わなかったのかもしれません。

[22] しかし、泰平平安時代末期の改元デマであり、 畿内で記録された後にすぐに忘れ去られたと推測されます。 それが山口まで何らかの形で伝わり、 物語に組み込まれて延々と語り継がれてきた、 と考えるには、あまりに環境が離れすぎています。

[23] たとえ現代人には荒唐無稽、支離滅裂な作り話に感じられたとしても、 この物語を語り継いだ人達にとっては相応の信憑性が感じられるものだったはずです。 そこで語られている時代に注意してみると、

... といった似た元号名の存在に気づきます。

[26] 本来は宇多天皇前後の時代の公年号で語られるはずだったものが、 何らかの誤りによって混乱し、実在しない泰平なる元号が生じた、 という可能性が見えてきます。

研究史

[7] の地域史は、 >>1 を紹介しています。 >>9

[8] 年代の考証は支離滅裂で内容も史実とは言い難く、構成の筆であると評しています。 >>9

[14] >>1 は確実に以後に書かれたとします >>9 が、 その根拠は説明していません。

[6] 文中の泰平私年号に比定しています >>9 が、その根拠は説明していません。

[15] >>16 の論文は、 >>1>>9 からほぼそのまま (誤り込みで) 引用した上で、 支離滅裂性に同意しています。 >>11


[20] 令和時代に至るまで、私年号研究の文脈で紹介した事例は知られていません。

関連

泰平 (改元デマ), 泰平二年壬辰

前近代日本文芸の日時

長嘉

メモ