[16] 札幌市時計台は、札幌市にある時計台です。 明治時代から現在に至るまで、市民に時を伝えています。
[5] 札幌時計台の紹介の多くに、明治21年から札幌の標準時に指定されたとの記述があります。 しかしそれ以上の詳細はなかなか見当たりません。
[6] 札幌市に残る古い新聞の切り抜きによると、明治21年1月14日の札幌区役所 (当時) 告示で、時計台の時刻「を以って」札幌の「一般の標準時」とするとの通知があったようです >>14。
[17] この告示をどう解釈するべきかは難しいところです。 本告示は明治19年勅令第51号によるものだ >>14 とされていますが、 この勅令は明治21年1月1日より実施される中央標準時を定める勅令でした。 個別の時計台の運用に関する規定はありませんが、 札幌時計台も中央標準時に従うこととしたと読むべきでしょうか。 時計台の時刻「を以って」標準時とするとの意味 (中央標準時との関係) もよくわかりませんが、中央標準時自体は概念上の存在なので、これを時計台に現示し、一般市民の利用に供するということなのでしょうか。 札幌区がこの旨の通知を受け取ったとありますが、どこから受け取ったのかは具体的には記されていません。 農学校の時計台担当官からでしょうか。いずれにせよ、この告示からは札幌区や北海道庁が時計台を標準時と定めたようなニュアンスは読み取れません。
[7] 元々札幌時計台の時刻は農学校観象台で天体観測により決定していた >>55, >>56, >>61 といいます。当初は現地の真太陽時または平均太陽時に合わせられていたのでしょう。 これが明治21年からは中央標準時 +09:00 に同期されるようになった、ということかと思われますが、 一方で明治32年に札幌時計台で日本標準時が採用された >>61 と説明するものもありますから、それを信じるなら明治21年当時はまだ天体観測によっていた可能性が高いことになります。
[8] 中央標準時実施時に官報に掲載された表によると、札幌の地方時は
+09:25:31 でした。この30分弱の時差がどこかのタイミングで調整されたはずです。
[18] いずれにせよ、明治時代には札幌時計台が札幌(近辺)の標準時と認識されていたことが、 告示や新聞記事などからうかがえます。札幌を発着する鉱山鉄道も、 時計台時刻を鉄道時としていました >>58。
[10] なお、津軽海峡の電信ケーブルは明治7年9月に敷設されており、 この年に東京・札幌間で電信が開通したとされているため、 原理的には中央標準時 (明治20年までは東京時) に機械的に同期させることもできたはずですが、 現在でも時刻調整は手動で行っている >>13 といいますから、 明治時代もそうだったのでしょう。 時計装置自体は当時としては精密なものを用いていたようです >>12, >>4, >>13 が、 大正時代には札幌時計台の時計は不正確という評価だった >>64, >>65 ようです。
1.15
札幌區役所札幌外五郡役所公文
告示第二號
明治十九年七月勅令第五十一號ニ據リ本年一月一日ヨリ札幌農學校演武場備付ノ大時計ヲ以テ一般ノ標準時ト爲ス旨其筋ヨリ通知アリ
北海道札幌區長古川浩平代理
明治卄一年一月十四日 北海道廳警部畑 一岳
2.22
札幌區役所札幌外五郡役所公文
告示第五號
札幌農學校演武場備付ノ大時計修繕ノ爲メ本日ヨリ一週間標準時ノ報告ヲ中止スル旨其筋ヨリ通知アリ
札幌區長古川浩平代理
明治二十一年二月二十二日 警部 畑 一岳
2.22
農学校の時計
當地の標準時は農学校の大時計を以て報し來りたるが今度仝時計の修繕に取掛りたれば本日より一週間標準時の通報を中止するよし
1883年(明治16)
11. 19 炭礦鉄道事務所より,以後演武場の時計を標準として鉄道を運行する旨申し入れがあった。(史料〕
[53] 時計台の歴史 ( 版) http://www.tokeidai.co.jp/tokeidai/ayumi.html
澄んだ鐘の音色はかつては一里(約4km)四方に響きわたって時刻を伝えたといわれ、明治21年1月には、札幌の標準時計として告示されたこともあります。
完成した当初の演武場には時計塔はなく、授業の開始や終了を告げる小さな鐘楼が屋根の上にありました。演武場の完成式に出席した黒田清隆開拓長官の指示で、塔時計の設置が決まったと言われています。
1878年10月25日、ホイーラー教頭はアメリカ合衆国ニューヨーク市ハワード時計商会に塔時計を注文しました。1879(明治12)年6月頃札幌に到着した時計機械が予想以上に大きく、鐘楼に設置できないことがわかりました。時計塔の設置には大がかりな改修と費用が必要なため、当時建築中の豊平館や他の建物に設置することも検討されました。しかし、ホイーラー教頭は演武場に塔時計を付けて札幌の標準時刻とすることの大切さを力説し黒田長官を説得しました。こうして完成間もない演武場に時計塔を造り直し時計機械が据えつけられました。校地内の天文台(観象台)で天体観測を行い時刻調整を行ったのち、1881(明治14)年8月12日、塔時計は澄んだ鐘の音とともに正しい時刻を札幌の住民に知らせ始めました。
農学校時代は誰が時計の保守をしていたのでしょう。最初、農学校の観象台で天文観測を行いながら時刻調整を行ったのは米人教師のピーポデーでした。ピーポデー先生の帰国後引き継いだのは日本の教師工藤精一であり、明治14年8月12日の塔時計運転開始の報告書を書いています。しかし、実際の時計の保守と重りの巻き上げを誰が行っていたのかはわかっていません。
1888(明治21)年札幌の標準時計に指定されてから以降の時期には、市内の中野時計店が保守と巻き上げを行っていたことが推測されます。中野時計店は1891(明治24)年頃南1条西3丁目に開店し、関東以北随一と言われた時計店です。鐘の部屋の梁などの2カ所に中野時計店の屋号(☆の内側にNのマーク)が墨で描かれています。中野時計店の時計職人が保守点検を行った時に描いたものと思われます。欠けた歯車の歯2本の修理と櫛歯レバーのヒビ補修は優れた職人の技でなされています。恐らく中野時計店の職人が修理したのでないかと推測されます。
1948~1951(昭和23~26)年の4年の間サマータイムが実施されました。サマータイムの始まりの日と終わりの日の年2回、午前零時に時計を早めたり遅らしたりする作業が必要でした。
[59] 札幌市時計台 - Wikipedia ( 版) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AD%E5%B9%8C%E5%B8%82%E6%99%82%E8%A8%88%E5%8F%B0
建設当初は大時計を設置せず、鐘楼に工部省東京工場製の鐘が吊るされていた。綱を引いて鐘を鳴らす仕組みだったが、時報の正確性に欠くことや振動により実験に支障をきたすことから、開拓長官であった黒田清隆のもと、1881年(明治14年)6月に塔部分を新築し、ハワード製の時打重錘振子式四面時計(製造番号738)が設置された。
札幌でも観象台(日時計)が時計台前に設置され、太陽の南中を正午として時刻を合わせていた。兵庫県明石市の標準時(明治21年実施)が札幌に適用されたのは、明治32年のことである。
札幌には標準時計がないので諸官公衙其他一般區民の不便は一方でない
歴史ある時計臺の大時計から旣に正確でないのだから仕末に了へぬ
演武場の屋上に大時計が備えられ、農学校の大時計として札幌市民に正確な時を告げるようになったのは明治14年である。
時計台は、農学校の一施設として存在しただけではなく1888(明治21)年に札幌の標準時時計に指定され、農学校の大時計として市民に親しまれてきました。
北海道大学の前身である札幌農学校の演武場であった時計台。札幌市と市民の努力によって守られてきた札幌の象徴であり、今も現役で札幌市の標準時を刻んでいる。国指定重要文化財にも指定されている。
時計の運針は正確で、明治21年には札幌の標準時に指定されたほどです。
ただ毎週保守やおもり巻上げ作業を行わなければならない。市内井上時計店をはじめ、ボ ランティアによって支えられている。時計台は時計を動かす50KGの重りと鐘のおもり150KGを専用のハンドルを使って巻き上げる。標準時より4秒はやく設定することになっている。針のスピードが冬が早く夏が遅くする。
その開業式の時、黒田清隆長官は屋上の鐘楼を見てその貧弱さを指摘し、時計塔の設置を思いついたとされています。
「明治10年から20年代にかけて、日本は時計塔時代でした。兵営、官庁、学校、商店、はては遊郭まで時計塔を飾るほどのブームだったのです」と、札幌市文化財保護指導員の武井時紀さんは語ります。ホイラー教授は、それから10日後に、3面に文字盤と鐘の鳴る装置を有し、市内の標準時となるべき正確な時計をという条件を添えて、アメリカ・ボストン市のE・ハワード時計会社に塔時計を発注したのです。
時間の調整は、腕時計を電話の時報に合わせておいて、鐘の鳴り出しの音に合わせます。
「誤差は進み10秒までとしています。きょうは、4秒の誤差でした」と和雄さん。
運針部
時間の誤差は天候に左右されます。一日のうちでも、急に暖かくなったり寒くなると、瞬間的に狂ってしまう。時計台の時計には秒針はないのですが、そんな日にはすぐ直しに行きます。
「時計が狂わない時代になって、秒単位で時間を合わせないと気がすまないんですね。必ず何秒違うといわれます。大勢の人に見詰められていますから、あれはプレッシャーですね。どだい、100年前の時計と最新型のクォーツとを並べて時間を競うのは無理な話なんでしようがね」と苦笑します。
[15] Insert title here () http://archives.city.sapporo.jp/Culture/scrap/scrap_photo_view.jsp?imgList=194_0033.jpg?1476008730836,194_0034.jpg?1476008730836&title=%91%E5%8E%9E%8Cv%82%CC%95%A8%8B%B6
明治11年に札幌農学校(現北海道大学)の演武場として
札幌観光の象徴でもある時計台は建設され、明治14年に
ニューヨークのハワード時計会社の3面時計が設置され
ました。明治21年には札幌標準時時計に指定され明治39年に
札幌市が買い取り、曳屋で現在の場所に移設しました。
【日時】6月28日(土) 午後6時30分~(開始時刻変更の可能性あり)
【場所】すすきの・某居酒屋予定
(出席者に追って一括でお知らせします)
【持ち物】らっきーな気持ち
【〆切】6月25日(水)午後11時05分(SMT)
(SMT : 札幌標準時(Sapporo Mean Time) )
完成した当初の演武場には時計塔はなく、授業の開始や終了を告げる小さな鐘楼が屋根の上にありました。演武場の完成式に出席した黒田清隆開拓長官の指示で、塔時計の設置が決まったと言われています。
1878年10月25日、ホイーラー教頭はアメリカ合衆国ニューヨーク市ハワード時計商会に塔時計を注文しました。1879(明治12)年6月頃札幌に到着した時計機械が予想以上に大きく、鐘楼に設置できないことがわかりました。時計塔の設置には大がかりな改修と費用が必要なため、当時建築中の豊平館や他の建物に設置することも検討されました。しかし、ホイーラー教頭は演武場に塔時計を付けて札幌の標準時刻とすることの大切さを力説し黒田長官を説得しました。こうして完成間もない演武場に時計塔を造り直し時計機械が据えつけられました。校地内の天文台(観象台)で天体観測を行い時刻調整を行ったのち、1881(明治14)年8月12日、塔時計は澄んだ鐘の音とともに正しい時刻を札幌の住民に知らせ始めました。
やがて時計台は、当時の“札幌区の標準時計”として、この街の刻を司ります。市民が時計を持つことが一般的ではなかった時代、人々は時計台を見上げ、鐘の音を聞き、時間という概念を生活の中に取り入れていきました。その鐘の音色は一里(約4km)四方に響きわたり、市民の心に癒しをもたらしたといいます。
[23] 「Hop Step Sing!」HopStep生放送第8回 - 2018/02/28 20:00開始 - ニコニコ生放送 () http://live.nicovideo.jp/watch/lv311175791
[24] 完成当時は時計塔がなかった?「札幌市時計台」の知られざる歴史 – 北海道ファンマガジン [ファンマガ] () https://pucchi.net/hokkaido/closeup/tokeidai-history.php
[25] 重要文化財旧札幌農学校演武場(時計台)外部改修工事/札幌市 (札幌市著, ) http://www.city.sapporo.jp/shimin/bunkazai/tokeidai.html
時計台が設置された当時、国内では電信設備が発達しておらず、全国一斉の時刻合わせが困難だった。札幌でも観象台(日時計)が時計台前に設置され、太陽の南中を正午として時刻を合わせていた。兵庫県明石市の標準時(明治21年実施)が札幌に適用されたのは、明治32年のことである。
取材・文/山本俊介
協力/札幌市時計台、北海道大学科学技術コミュニケーター養成ユニット(CoSTEP) 難波美帆特任准教授
写真/中村健太