[1] 建徳 (y~456) は、日本南朝の元号の1つです。
[31] 史料 : 皇學館大學研究開発推進センター史料編纂所報 (131), 皇學館大學研究開発推進センター史料編纂所, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/4420990/1/6?keyword=%E5%BB%BA%E5%BE%B3 (要登録)
[2] 後南朝系の伝承で、熙成王後亀山天皇を建徳5年壬子の即位とするものがあります。 >>10, >>15, >>14, >>13, >>3, >>9 史実性の疑わしい史料とされています。 >>3
[4] 現在の通説によれば、
ですから、2年ずれがあります。
[7] また、後亀山天皇はの即位とされ、 約10年のずれがあります。
[8] 建徳3年壬子 (= 文中元年) は北朝の応安5年に当たりますから、 その混同とも考えられます。 >>3 しかし即位とのずれは説明が付きません。
[12] 比較的好意的に扱う昭和時代の文献で、 の誤りかと注釈するものがあります。 >>11 根拠は不明ですし、訂正したところで現在の通説とは一致しません。
[34] の書籍は琉球国 (中山王) から明国への遣使を
「
[37]
の漁業関係の論文は琉球国 (中山王) から明国への遣使を
「
[38] 建徳を南朝の元号だとすると、 >>4 の通り2年ずれがあります。
[39] 正平は現在の通説では25年までで、正平26年はに当たります。 >>37 の西暦年とは1年ずれがあります。
[40] この時期、琉球、日本、明、朝鮮、越南などで他に建徳という元号は知られていません。
[41] 「琉球年号」が何を意味しているのかは説明がなく不明です。 一般には、琉球王即位紀年を指して使われたり、 琉球国で使われた中華王朝の元号を指して使われたりしています。
[42] >>37 が >>34 に基づいて書かれたものなのか、その他の情報源によったものかは定かではありませんが、 前後の文も含めて表現が似ているので、同系統と考えて良さそうに思われます。
[43] >>34 も >>37 も筆者はこの時代の歴史の専門家のようには思われませんから、 何らかの誤解の積み重なりかもしれません。
[17] >>16 >>20 文中元年 = 北朝建徳五年。実際には南朝文中元年 = 南朝建徳3年 = 北朝応安5年。
[18] 年表世界歴史, 井上幸治, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/3006554/1/111?keyword=%E5%BB%BA%E5%BE%B3 (要登録)
[19] >>18 一三七四年 = 文中三年 = [北朝]建徳五年。実際には西暦1374年 = 南朝文中3年 = 南朝建徳5年 (延長年号 +2年) = 北朝応安7年。 年数は正しいが、南朝の1つ前の元号の延長年号ではなく北朝の元号を書くべきところ。
[24] 訳註大日本史 七, 徳川光圀 撰, 川崎三郎 訳註, 建国記念事業協会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1920585/1/63?keyword=%E5%BB%BA%E5%BE%B3
[30] >>27 の説は日付がわかりにくいけど、応安2年12月晦日に南方で改元の沙汰あり (と北朝方に伝わってきた)、応安3年が明けると南方で建徳元年と改元する/した (と北朝方に伝わってきた) ということ?