[4] 天命は、清の初代皇帝太祖 (ヌルハチ) の時代の元号です。
[60] 日本国東京都調布市郷土博物館所蔵東京城天祐門門額は、 無圏点老満文で書かれています。 >>39
[46] 中華人民共和国遼寧省瀋陽市の故宮博物院石刻館所蔵海州牛荘城老満文徳盛門門額は、 再建の牛荘城の徳盛門の門額で、 老満文で書かれています。 >>39
[12] 後に編纂された清国の歴史書では、 に後金が建国され天命と建元された、 とされていました。 一応これが現在も通説となっています。 近現代の研究や解説で天命何年と書かれる場合、 基本的にはこの数え方に従うようです。 (y~244)
[18] その一方で建国と建元の時期、当時の国号については、 史書の記述をそのまま信用するのは難しいとして、 近現代の日本や支那の研究者が諸説を提示してきました >>10, >>6。
[20] 武皇帝実録本清太祖実録 (後金天聰年間に編纂され11月15日に完成した太祖太后実録の改訂、2月完成) は、 1月1日に即位、天命と建元したと書いていました。 >>10, >>39 高皇帝実録, 満洲実録も同様でした >>6。 (y~244)
[40] 清国の公式の記録である本書が、 現在につながる建元説 (y~244) の根本とされています >>39。
[15] 清太祖実録の元になったとされる満文老档 (満文原档 (旧満州档) を頃整理したもの, 無圏点老満文) では、 ヌルハチの時代は丙辰年の前後とも干支年だけで書いていました。 例えばは falahūn (丁) meihe (巳) amiya (年) と書かれていました。 一方次の天聡年間は、 sure (天聡) han (汗) i (の) sučungga (元) aniya (年), jai (二) aniya (年) のように書かれていました。 >>11
[31] この書き分けとちょうど符合するように、 現存する他の殆どの史料は干支年を使い、 年数を書いていません。 こうしたことなどから、 実録の天命建元記事は潤色が疑われました >>11。
[42] 三田村泰助 (>>16) >>11 や今西春秋 >>43 は、 漢化が進む前の満州人の生活上は従前の干支年が使われ続けたと考えました。 満文老档が元号を使わないのはその反映と考えました。 三田村泰助は満文老档に建元記事がないのはその事実が無かったからと考えましたが、 今西春秋は崇德改元の記事もないことを指摘し、 著者が関心を払わなかったに過ぎないと考えました。
[109] 中華人民共和国の東洋史研究者蔡美彪は、 天命紀年のほとんどが漢文であること、 次の太宗の時代も漢文では天聰紀年を使い、 満文では「淑勒汗的某年」式に書いていることから、 天命は従来の明の元号名のかわりとして支那側の伝統から生じたもので、 「天命金国汗」の汗号に由来すると考えました。 年数ではなく干支年で書かれるのも、 建元が無かったためとしました。 >>6
[111] 太宗の天聰年間は、 満文では sure han i sucungga fulahūn gūlmahūn aniya (淑勒汗的第一、丁卯年) や 淑勒汗的第二、戊辰年のように書き、 漢文では天聰元年丁卯、天聰二年戊辰のように書いていました。 蔡美彪はこれも即位紀年に過ぎず、 次の崇德で初めて建元したと考えました。 >>6
[120] 蔡美彪が引用していない満文の「天命干支年」と書いた史料を含めると、 この表記が必ずしも漢文に集中しているとはいえず、 また漢文が先行しているとも言い難いように思われます。 未整理の文献も含め、満文と漢文の史料の総合的な調査研究による発生過程の解明が望まれます。
[121] また、これは何をもって元号とするかの定義の問題にも関わると思われます。 元号の制定 = 建元とそれによる反乱、建国の意思の表明を重視すれば、 建元の事実がなかったものは (当時の時点では) 元号ではない、 と狭く考えることもできます。一方で明の元号のかわりに元号と同じように使われた実績があるなら、 (当時既に) 元号として成立していたと見なす考え方もあり得るでしょう。 しかも明の元号はほぼ一世一元で運用されており、 元号名が皇帝の名前となっていたことを思えば、 即位紀年と元号の境界は常に曖昧です。
[9] 満州語の abkai fulingga と漢語の天命の語は、 漢語、満州語とも、 汗号や貨幣名などとして、 天命年間や次の天聡年間によく用いられていました >>8 PDF 4ページ, >>11。 建国を正当化するスローガン的な意味合いから生じた言葉だったのでしょう。
[30] 年の表記と関係していない用法は、 元号が確立した時代なら元号名に因んだといえますが、 そうと確定できない時代には、 必ずしも元号の徴証とはいえません。 また、 両言語で使われており、併記されたものもあることから、 例えば元号名が漢語にのみあったということもいえません >>11。
[122] 年の表記としての用法とそれ以外との用法のどちらが元でどちらが派生なのか、 当時の文献等を総合的に分析して検討する必要があると思われます。
[13] 李氏朝鮮と清の記録では、 に後金から朝鮮に国書が送られました。
[23] 明の朝廷は、 に朝鮮経由で天命建元を知ったとされます。 >>10
[45] その他これに関係すると思われる記録がいくつかあります。
[123] これらの記録にある天命元年、天命2年の記述に従えば、 元年はです。 通説より2年遅れています。 (y~1826)
[17] は、 ヌルハチが七大恨で明からの独立を宣言した年でした。 従って元年に相応しい年と考えられます >>11。
[19] 日本の昭和時代の朝鮮史研究者田川孝三は、 光海君日記巻1384月9日条の 「天命二年」 より、清の記録との2年のずれを指摘しました >>26 DjVu 6ページ, >>25, >>39 (>>26)。 この史料の発掘により、従来史料不足で放置されていた天命建元の研究が進展しました >>10。
[16] 日本の昭和時代の東洋史研究者三田村泰助は、 各国の記録の比較検討から、 に国書としての体裁を整えるため考案された元号であって、 明から独立したに遡って元年と設定したものと考えました。 >>10, >>11
[32] 三田村泰助が2年 () に考案されたと推測したのは、 それ以前の用例がなく、 明が直接ではなく朝鮮を介して建元を知ったということからでした >>11。
[87] 黃彰健 (>>77) は、 「建元している」という情報が明で 「その年 (万曆46年) 建元した」 と誤解されて広まったものとし、 光海君日記の「天命二年」もその影響下で生じたと考えました。 >>74
[124] ともかく、 この時期の明と李氏朝鮮の人々の間で、 満州族の元号が天命で、 が元年であるとの情報が広まっていたことは確かなようです。 しかも、 その人々が満文の元号名を想定していたのかどうかは不明ですが、 天命という漢文の元号名が広まっていました。
[77] 中華民国台湾の東洋史研究者黃彰健は、 光海君日記の内容と成立過程の分析から、 「天命二年」は編纂官が国書原本を実見できずに書いたものと考えました。 国書原本にあったのは「天命三十六年」だったとしました。 >>74
[89] ヌルハチは同族争いでに挙兵しましたから、 その翌年は元年とするに相応しい年と考えられます >>74。
[90] しかし当時のヌルハチはまだ小勢力に過ぎず、 建元したとは考えにくいです。 黃彰健は、 国書の頃に元号が必要となったために遡って元年を定めたと考えました >>74。
[127] 国書以後は天命年数年の年数表記の用例が見当たりませんが、 黃彰健は、 即位に起算する支那式の慣例に馴染まないことに気づき、 年数を使わない干支年表記に改めたものだと推測しました >>74。
[110] 蔡美彪 (>>109) は、 「天命三月十六日」 の誤写だとしました。 3月16日だとすると送付の時期にちょうど一致するといいます。 >>6
[128] 国書の日付は「天命三十六年」、「天命三十六年月日」、 「天命二年」、「3月21日」、記載なしと諸書ばらばらです。 しかも当時の天命元年、天命2年の風聞を除けば、 年数を明記した信頼できる他の紀年資料がまったくありません。 この状況では、当時の国書の記載を確定させるのは困難と言わざるを得ません。
[35] 李氏朝鮮時代の家世集遺補丙丁志に、 に天命改元されたとありました。 >>11 (稲葉岩吉)
[38] 天啓辛酉年が天啓元年であることを思えば、 天啓と天命の改元情報が混乱して記録された可能性もあるでしょうか。
[125] あるいは現存する紀年史料がほとんどこの年以後であることを思えば、 このとき初めて天命の元号に接した人の間で、 いつしか元年と誤解されるに至ったのかもしれません。
[126] なんにせよ、年数ではなくもっぱら干支年で書かれたため、 正しい建元年を知ることができなかったのでしょう。
[130] 中国歴代年号考は、 天命と天聰の後に注釈を挿入して、 祟德建元より前の文献には汗号紀年だけで元号はなく、 実録が漢制に附会したものだとする、 蔡美彪の説を引用していました。 >>131 (>>6)
[133] 中文版维基百科は、 やはり蔡美彪の説を引用して、 天命や天聰は汗号紀年だけで元号はなく、 実録が漢制に附会したものだとする研究者がいると書きました。 >>132, >>142 中国歴代年号考と文言がほぼ同じなので、 引用はされていませんが中国歴代年号考の影響かもしれません。
[135] 中文版维基百科はその後の改訂で、 その説に対し、 大金天命云板などに天命の元号が残るため、 天命の元号が存在したことは確実だ、 と否定的に追記されました。 >>134 に蔡美彪が死去した直後、 追悼のため蔡美彪の論文が紹介されたタイミング 例えば >>7 での改訂でした。
[136] これでは蔡美彪の説はまったく成立しない、既に否定された説のように読めますが、 実際には蔡美彪は当該雲版を踏まえて検討していたことが、 論文には明記されていました >>6。 维基百科の編集者は当時の記事に書かれていた要約だけを読み、 原論文を読むことなく論旨を誤解し、追記したのでしょう。
[139] 日本語版ウィキペディアも、 実際に制定されたのではなく後から制定されたものだ、 在位紀年に後から命名したものだとする説もあるとしました。 >>138, >>145 その出典は不明ですが、蔡美彪の説の孫引きでしょうか。
[140] このように、 「建元の事実はなかった」 「元号状のものはあった」 といった説が 「元号がなかった」 と誤解を招く形で要約されて伝言ゲームされた結果、 追号説が提唱され否定されたことになってしまっているようです。
[101] 天命丙寅年にヌルハチが没し、 9月に太宗が即位しました。 9月から12月に天命が使われ続けたのかどうか、 同時代の史料がなく不明です。 >>74
[103] 当時は天命から天聰に切り替えられたものの、 漢化後の史書で即位翌年を天聰の元年に再設定したとも考えられます >>74。
[5] File:Nurhachi Coin, Aphai fulingga han chiha.jpg - Wikimedia Commons, , https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Nurhachi_Coin,_Aphai_fulingga_han_chiha.jpg
[2] 満洲文字を知る5, , http://www.for.aichi-pu.ac.jp/museum/manju/manju5.html
[153] 天命汗銭2, , http://kodaimoji.chowder.jp/moji-list/m2kfol/m2k02.html
[152] m2k01.pdf, , http://kodaimoji.chowder.jp/pdf/pdf/m2k01.pdf
[148] 737b76e4526a357855b8f6fc90b7f273.pdf, , http://eurasiaken.sakura.ne.jp/wp-content/uploads/2014/03/737b76e4526a357855b8f6fc90b7f273.pdf