[2] 満州国錦州省興城 (現在の中華人民共和国遼寧省興城市) の天寧寺の棟札に、 「大明二年奉勅命創建」 とあるほか、 成化七年、 崇禎六年、 崇禎十五年の日付がありました。 >>1
[3] この天寧寺がその後どうなっているのか、 国立国会図書館デジタルコレクション全文検索、 Google検索、 Baidu 検索、 Wikipedia 日本語版, 中文版、 ChatGPT のいずれによっても明らかではありません。
[5] この天寧寺は明の時代に栄えたものの、清の時代には衰微していたようです。 >>1
と矛盾したことが書かれています。 >>1 似たような棟札が他にあるとも思われず、他の情報源を引いているわけでもないので、 件の棟札のことを明正統2年等と書かれた棟札と呼び、 この寺を明正統2年の勅命の創建と説明しながら、 銘文説明では謎元号だとしているのです。
[10] 銘文の注釈では、大明は六朝時代に属して古すぎ、 文明の誤りだとしても唐の時代になってしまうので、 当時の私年号だろうか、と述べています。 >>1
[15] 六朝時代というのは南朝宋を指すのでしょう。 は確かに時代が離れすぎています。 南朝宋の版図からも離れています。
[16] 南詔国 (現在の中華人民共和国雲南地方) のも、時代と場所が遠すぎます。
[17] 唐ではの1年だけ文明が使われましたが、 2年はありませんし、時代が離れすぎています。
[18] 日本にはがあり、 時代は近いですが、満州で使われているはずがありません。 しかもの前年で別の元号なのは不審です。
[19] 天明の可能性もありますが、 宋 (隋末期の反乱政権) の, 大理国 (現在の中華人民共和国雲南地方) の頃, 日本ののいずれも不適切といえます。
[11] >>10 の当時というのは創建当時を指すのでしょうが、明正統2年に「大明」の私年号があったということでしょうか。 筆者も自信なさげに書いているとはいえ、あまりに意味が不明です。
[13] 大明が解釈不能だとすると、正統2年という年がどこから出てきたのかが謎です。 何か他の情報源があるのでしょうか。
[12] 勅命で造られたというからには皇帝の公年号を当然に奉じていたはずで、 崇禎年間に造られた棟札なら明の皇帝と解釈するのが自然です。 そうでないなら明ではない反乱政府の皇帝か、 明より前の時代の皇帝ということになるのでしょうが、 何の説明もないのは不自然すぎます。 だからこそ憚って説明を端折ったということもあるのかもしれませんが、 よりによってその元号が大明で、それをそのまま書くというのはあり得るでしょうか。
[14] そう考えると、「大明○○二年」と本来元号名を書くものを、 何らかの意図があって、または何らかの事故で省略したと解釈したくなります。
[20] 正統説によればを表すことになります。 その続きが、 、 と不均等ですが、 定期的な出来事ではないので特に不審とするほどではないでしょう。
[21] なぜ正統の元号名が欠けているのかは謎です。 正統帝は蒙古に捕縛され退位しましたが、 後に復位しており書くのを憚る必要があるとは思えません。
[22] 憚るといえば建文帝で、 とすれば年代も離れすぎてはいません。 崇禎帝の時代はちょうど名誉回復が試みられつつも確定してはいなかった時代で、 革除が続いていてもおかしくはありません。 しかし干支もなにもないので根拠となるものはありません。