[5] 元興寺伽藍縁起并流記資財帳 は、 飛鳥時代の遺文を含んで奈良時代に成立したと称している、 平安時代末期成立とみられる偽書です。 >>2
[1] 元興寺伽藍縁起并流記資財帳 () http://www.ne.jp/asahi/isshun/original/siryo_gangoji.html
[11] I 縁起(1)(5)
[14] >>12 前段は東洋の日時表示の先頭の君主名の部分に似ていますが、珍しい形式をしています。 >>12 全体で1つの日時表示と解する説もあるでしょうし、 2つの事実を併記したと解する説もあるのでしょう。
[16] 治天下の後の人名は日本書紀の豊御食炊屋姫尊, 古事記の豊御食炊屋比売命と解されています。
[18] 東洋の日時表示で「生年○○」を使った例はみたことがありません。 これ単体なら、死去時の年齢を書いたようにも読めます。 生前でもそのような表記を使い得るという説もあります >>13。 仮にそうだとしても、 紀年に在位年数でなく年齢を使うのは異例で、 ここでいったん区切れているとも考えられます。
[19] 仮に年齢だとして、100歳は長寿すぎるのではないかという疑問もあります。 生きていたら100歳、と書いたとも考えられますが、 そのような事例はあるのでしょうか。
[20] 「歳次癸酉」と「生年一百」が同じ年だとして、通説によれば癸酉年は、 数え60歳。
[21] 干支に倣った60進数なので60歳の意味だとする説もあります >>13。 確かに年齢は合いますが、そんなこと本当にあるのでしょうか。
[22] 「名前何年歳次何々」 や 「歳次何々年」 は一般的ですが、 「歳次何々」 だけで月日に続くのはあまり見ません。 >>12 前段が名前に当たるとするといいですが、前後が別々だとすると座りの悪さがあります。
[53] 「池邊列槻宮」は池辺双槻宮、 橘豊日命は古事記にあり、 どちらも用明天皇。
[54] 「馬屋門豐聰耳皇子」 は日本書紀の厩戸豊聡耳皇子命、 聖徳太子。
[55] 従って >>52 は >>12 の前に更に「用明天皇の皇子の聖徳太子」と書かれていることになります。 日付の次には「これを書いた」旨の文が続くので、 これは日時表示の一部ではなく、 「聖徳太子が、いついつに、書いた。」 となる主語に当たる部分と解されているようです。 日時表示の一部だとすると意味が通らなくなりますから、妥当でしょう。 しかし人名を派手に仰々しく修飾したせいで文の構造も掴みづらく、 悪文というべきです。
[24] これも、ありえなくはないのでしょうが、あまり見かけない日時表示です。 文の中に埋まっているから説明的になっているといえなくもないですが、 「御世」「仕奉時」「治天下」が1つの日時表示に並ぶのは不自然な感じがしますし、 かといって3つの句だとすると「治天下」から始まる日時表示の方法が他にあるのかどうか。 「誰々治天下七年」だけならありそうなものですが。
[26] もしこれが癸酉年のものなら、天皇即位紀元の最古の用例にもなります。
[27] I 縁起(c)(d)(e)(f)(g)(h)
[49] 表記の揺れ等少々気になるところもありますが、文中なのでそういうこともあるでしょうし、 書写時の脱落もあるでしょう。
[50] 「椋攝〔椅〕天皇」は 倉梯柴垣より崇峻天皇と解されています。
[51] 「等由良宮」 は豊浦宮, 推古天皇と解されています。
[56] II
[57] 「難波天皇之世 辛亥年正月五日」
[58] II の先頭に属するという解釈と、 I の末尾に属するという解釈があります。 >>2
[63] しかしこのような表記が飛鳥時代にあり得たものでしょうか。 天皇号の起源にも関係します。
[60] 孝徳天皇辛亥年は。
[61] 「○○天皇之世干支年」 の表記は奈良時代の 常陸国風土記に 「難波長柄豊前大宮馭宇天皇之世癸丑年」 「難波長柄豊前大朝馭宇天皇之世己酉年」 とまさに孝徳天皇の例があり、 石川年足墓誌 に「平成宮御宇天皇之世天平寳字六年歳次壬寅」 とあり、また中世にも用例がみられます。
[62] 天皇名と干支年だけを組合せた紀年は奈良時代の金石文や資財帳にはありますが、 飛鳥時代に確実に遡れるものはない模様です。 もしこれが当時のものなら現存最古の可能性があります。
[67] III 丈六光銘
[69] 推古天皇13年と解されています。
[102] もし当時のものなら、天皇即位紀元の最古例の可能性があります。
[103] 文脈上にも元号名がなく年数だけの紀年は古代ではとても珍しいです。
[105] 他の用例として 上宮聖徳法王帝説 に 「十三年辛丑春三月十五日」 があります。同じ推古天皇13年なのは偶然ではないかもしれません。
[71] IV 牒
[75] VI 私勘
[106] 日付は 扶桑略記 「十三年壬申冬十月十三日辛酉 百済国聖明王始献金剛釈迦像一体」 に由来し、 干支年は誤写とされています。 いずれにせよ日干支も一致せず、 [CITE{扶桑略記]] の誤記ないし仏教公伝別説の干支年の混入が疑われています。 >>3
[104] 上宮聖徳法王帝説の釈にほぼ同文があり、 そこでは法興元世となっています。
[107] 「第8年」は数え方により養老元年または2年とされます。 >>3
[2] https://ncu.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=1255&file_id=25&file_no=1
[3] 元興寺伽藍縁起并流記資財帳をそのまま読む, , http://himiko-y.com/scrp1/gangouji01.html
[4] http://repo.nara-u.ac.jp/modules/xoonips/download.php?file_id=1756
[13] 元興寺丈六仏光背銘私考 - 日本古代史ノート, https://mkpo33.jimdofree.com/%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%A0/%E5%85%83%E8%88%88%E5%AF%BA%E4%B8%88%E5%85%AD%E4%BB%8F%E5%85%89%E8%83%8C%E9%8A%98%E7%A7%81%E8%80%83/