[12] 章炳麟が辛丑後238年12月、
辛丑後240年と書いた例が知られています。
日付は農暦とされます。
の2説があります。
[29] 後者の説においては、 前者の説は時期や本文記述等の検討により否定されています。 は明永暦帝の治世の最終年で、 漢民族が無主となった「辛丑後」時代に含めるべきものではないのだとされます。 >>19
[17] 後者説はに既に日本の研究者に採用されていますが、 その同定の根拠は示されていませんでした。 >>16 この説が採用されることが多いようです >>21 (>>19), >>20, >>22 (>>19), >>23 (>>19)。
[13] 支那亡国二百四十二年紀念会啓 は日本国東京府東京市の清国人漢民族留学生らの団体の発起趣意書で、 章炳麟を筆頭に数名が署名していました。 >>5
[14] なお同書所収の会則には 「陽暦四月廿七号午前十一時」 のような日時表示があり、 日本で日本式の表記を使っていたことがわかります。 (なお号は中文の口語の表現。)
[15] 日本に残る資料から、 この集会が開催されたのはであることは確かなようです。 >>5
[51] 支那亡国二百四十二年紀念会啓 の辛丑後242年が開催と同年で間違いないのだとすると、 前者の説と整合しています。 章炳麟が関与しているので、異説が同時期に共存していたと考えるのも難しそうです。
[28] 亡国紀年は清末に提唱されたとされることのある紀年法の1つです。 >>26, >>1, >>2
[11]
支那亡国紀年という章炳麟の紀年法らしきものに触れた論文がありますが、
出典も説明も不十分で詳細不明です。
[32] Yuán's Era と訳されることがあります。 >>2 しかし Yuán (元?) は謎ですし、 「Chinese (Song Dynasty) lost China completely」 (宋朝?) という説明も謎で、 信憑性がありません。
[31] 亡国紀年には明の滅亡によるもの、 清の入関によるものの2種類があったとされます。 >>30
[33] 先述の支那亡国二百四十二年紀念会はに日本で開催された清国人の団体とそのイベントです。 >>3, >>4, >>10
[34] この会は「紀念」「記念」「紀年」と表記されることがあります。 この語は現代日本語では「記念」が正しいとされますが、 近代日本語までは「紀念」「記念」は混用され、 むしろ「紀念」をよく見かけます。 「紀年」も周年イベントの意では必ずしも誤用とはいえないところです。 日本語だけでなく中文でもこうした表記があり得ると思われます (要出典)。
[35] 会の名称それ自体が「亡国紀年」紀年法の年数と言えないこともないですが、 どちらかといえば周年を数えたもので、紀年的な性質は薄いかもしれません。 この会の趣意書の日付が「亡国何年」 ではなく辛丑後表記であること (>>6) が、少なくてもその執筆時点で、 「亡国何年」 の方は紀年法と認識されていなかった証左といえます。
[38] 明永暦紀年 >>7, >>8, >>37 は章炳麟が使った >>7 とされる紀年法です。
[41] 実質的に辛丑後と同じものです。辛丑後の通称または何らかの誤解で発生した名称でしょうか。 (ただし辛丑後は農暦の可能性が高いとされる点が違います。)
[42] 現在知られている出典はすべて日本のウェブページで、 紀年法をいくつも列挙したものです。
[43] もしかすると書籍か何かで共通の情報源があるのかもしれませんが、未発見です。
閑話休題、清が当に倒れようとする19世紀末~20世紀初頭にかけて、革命派・洋務派それぞれに独自の紀年をつくりました。 以下に挙げるのが、その代表的な所です。
明永暦紀年 (紀元元年 後1661) 使用者は、康有為・章炳麟・宋教仁・劉師培が代表的で、その著作や関係する雑誌・新聞等に用いられています。
[24] 晚清“纪年”论争之文化解读-中国人民大学复印报刊资料, http://rdbk1.ynlib.cn:6251/qw/Paper/293967
在晚清,纪年方式体现的是一种对现存秩序的反抗,这点再清楚不过了。钱玄同曾在年轻时做了一本《纪年检查表》,“于宋亡以后,徐寿辉起兵以前,均写‘宋亡后几年’,而附注曰‘伪元某某酋称某某几年’;于明亡之后,洪秀全起兵以前,均写‘明亡后几年’,而附注曰‘伪清某某酋称某某几年’;于洪秀全亡以后,民国成立以前,均写‘太平天国亡后几年’,而附注同上。”后来他回忆时也“颇自笑其过于迂谬”,只是想表明其“当年排满之心理”[8](p115)。这是年轻的钱玄同对于现存制度不满时所能找到的最有效的资源。