[1] 日本書蹟大鑑 第14巻, 小松茂美, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/12705251/1/119?keyword=%E8%A6%B3%E5%AE%B9 (要登録)
[20] 寛永をを元年とする九州の私年号とする説があります。
[7] に日本国熊本県下益城郡松橋町の上田栄二 (昭和2年 -) が出版した書籍は、 古代文字も出てくるような超古代史から始まり当地の歴史を語るものでありますが、 著者の独自の研究成果の結論だけが書かれていて、 出典や理由のようなものはほぼ語られません。 >>24
[15] 本書は日本国熊本県下益城郡美里町津留の慶専寺 >>8 の縁起を記述するにあたり、
と述べています。 >>24
[11] 令和時代に至るまで、この寛永なる私年号に言及したものは、 本書1点以外に見当たりません。
[13] 本書で語られる慶専寺の歴史記述は、 下益城郡誌 とほとんど同内容です。 ただし 下益城郡誌 には寛永二年とだけあって、永正であるとも私年号であるとも書かれていません。 >>12
[14] 本書の内容を鑑みるに、上田栄二が 下益城郡誌 を参照した可能性はかなり高いと考えられます。
[16] 地元の他の郷土史家などの説などがあった可能性も否定できないものの、 現段階では、私年号云々は上田栄二が 下益城郡誌 の解釈のために独自に考案したと見ておきたいところです。
[17] 下益城郡誌 および本書の説明では、 寛永2年に寺を作ったことと、 天正10年に寺を作ったことが順に出てきます。 この2つの出来事がどのようにこの形で語られるようになったのかは検討を要しますが、 前者を承けて後者が起きたとすると矛盾します。 そこで天正よりも前の寛永が私年号として存在したに誓いないとしたのが本書の説なのでしょう。
[18]
寛永を永正時代としたのは、永が共通しており、
説明の時系列にマッチする中世後期頃の元号であることからでしょうか。
他にも該当し得る元号はありそうで、なぜ永正2年と断定されたのかは不明です。
[19] また、だからといってそれが九州でだけ使われた私年号というのも飛躍であり、 なぜそのように説明されることになったのか謎です。
24 、慶専寺 (真宗本派)現在中央町津留に在りて、佐々木姓なり、
元佐々木高綱薙髪して、了智と号し、西国九州を布教して廻りしと、寺歴に依れば、信州栗林正行
寺を創む、了智より八世の住、了恩の弟了恵、寛永二年 (永正二年一五〇五) 上は私年号で九州だけ に使われて居た。