賛普鐘

雲南の元号

[15] かつて東南アジアにあった南詔国大理国 (現在の中華人民共和国雲南地方一帯) では、 元号が用いられました。

概略

[18] 現在中華人民共和国の統治下にある雲南地域には、 漢民族系の人の他、 チベット系、 タイ系の人々など多くの民族が住んできました。

[19] 古くは南詔国大理国の諸王朝がこの地域を概ね統一し独立を保っていました。 時代によってはインドシナ半島方面へも領土を拡大していました。 蒙古帝国の侵攻以後、 雲南地域は独立を失い中華王朝の統治下に収まり、 現代に至っています。

[20] 雲南の人々の民族言語は様々ですが、 いずれも漢民族文化の影響を強く受け続けてきました。 歴代の日時制度もその例外ではありません。


[26] 南詔国大理国では、独自の元号が使われていました。

[25] 前近代にこの地域の史書は数個編纂され、そこに元号も記録されているのですが、 誰々王の元号は何々と何々と何々だった、 という形なので代始改元が即位年か翌年か曖昧で、 治世途中の改元がいつなのかわからない、 というケースが相当多いようです。 しかも史書ごとに脱落や入れ替わりがあったり非常に混乱しています。 (元号名が2文字なのか4文字なのか6文字なのかわからないケースがあるのも、 この書き方と句読点のない前近代漢文句読法のせいです。)

南詔国の元号

[12] 南詔国天啟大理国明治の旧説訂正 >>10

[28] 安国聖治

賛普鐘

[5] 賛普鐘 (赞普钟, y~1680) は南詔国の最初の元号です。 雲南地域の最初の独自元号とされます。

[7] 南詔国吐蕃冊封され、 2代国王阁罗凤 (在位-) 赞普钟の称号を与えられました。 赞普とは圣神赞普ともいい、 吐蕃の君主の称号でした。 赞普钟チベット語赞普の弟を表します。 >>6

[8] これを中国では南詔元号の初めとみなしているのですが、 以後の元号はすべて漢語であり、 1つだけチベット語なのは異様です。 元号名君主号の一種でもあるのなら、 元号というより即位紀年に近いと考えるべきかもしれません。

[1] 賛普鐘 - Wikipedia (, ) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B3%9B%E6%99%AE%E9%90%98

[2] 岩手大学リポジトリ, NetCommons, https://iwate-u.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=12238&item_no=1&page_id=13&block_id=21 PDF 4ページ

[3] 日本西蔵学会々報 (48) 001大原 良通「八世紀における吐蕃の対南詔国政策」.pdf, , http://echo-lab.ddo.jp/Libraries/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%A5%BF%E8%94%B5%E5%AD%A6%E4%BC%9A%E3%80%85%E5%A0%B1/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%A5%BF%E8%94%B5%E5%AD%A6%E4%BC%9A%E3%80%85%E5%A0%B1%20%20(48)%20(20021031)/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%A5%BF%E8%94%B5%E5%AD%A6%E4%BC%9A%E3%80%85%E5%A0%B1%20(48)%20001%E5%A4%A7%E5%8E%9F%20%E8%89%AF%E9%80%9A%E3%80%8C%E5%85%AB%E4%B8%96%E7%B4%80%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E5%90%90%E8%95%83%E3%81%AE%E5%AF%BE%E5%8D%97%E8%A9%94%E5%9B%BD%E6%94%BF%E7%AD%96%E3%80%8D.pdf#page=3

大理国の元号

[4] 大理国买地券探析_昆明市志信息网_区域史, 昆明市志信息网, http://sz.km.org.cn/c/2019-12-13/3230379.shtml

[9] 宝贝!古碑上发现大理国皇帝“段誉”年号-人文-玉溪网-玉溪综合门户网站, , https://web.archive.org/web/20211224142736/http://www.yuxinews.com/wh/sc/4973902.shtml

日時形式

[29] 金石文史書には通常の東洋の日時表示が用いられることが多いです。

[30] 史書には干支元号年形式が用いられることもあります。

その後

[16] 大理国は、蒙古帝国によって滅亡し併合されました。 以後歴代の中華王朝に統治され、 その日時制度が適用されました。 元の元号, 明の元号, 清の元号, 民国紀元

[17] 現在の雲南地方は中華人民共和国の統治下にありますが、 一部で国境の先の東南アジア国家の標準時が使われています。 逆に国境の先の東南アジア国側の一部でも中華人民共和国の標準時が使われています。 中国大陸の標準時

メモ

[24] 雲南広西越南で敗れた勢力の亡命先にもなっていたようです。 客人として迎え入れられたのか、 それとも小規模ながらも独立勢力を維持しようとしたのか (勢力独自の元号を使い続けたのか) 気になります。

[21] 日本からは距離も遠いためなのか、 この地域の情報は日本語ではなかなか出てきません。 日本人でこの地域の研究者も多少はいるようですが、 日時制度に特に注目している人は近現代を通してほとんどいないようです。

[22] 中華人民共和国では南詔国大理国元号の研究もまま行われているようです。 (中原の王朝よりはずっと少ないみたいですが。) それでもなお不明な点が多いのは、時代が古すぎてあまり史料が残されていないためでしょうか。 それとも中華人民共和国でも関心がそこまで強くなくて研究の余地がまだあるのでしょうか。

[23] 南詔国大理国は、諸王朝が興亡を繰り返しながらも、 成立から滅亡までおおむね1つの中央政府の元で統一国家が保たれてきました。 平和裏に行われた王位継承だけではありませんが、 それでも旧王の統治が終わって新王の統治が始まる、 という形にはなっていました。 元号もそれに合わせて切り替えられてきました。 小国が乱立して激しい勢力争いを続けた中原方面とは大違いです。 これが史実を忠実な説明なのか、 それとも史書が綺麗にまとめた結果そう見えているだけなのかには興味があります。

[27] この地域の非主流政権の元号は、数個記録されています。 大理国時代の後期に集中しているのは、 それだけ混乱の時代だったということもあるのでしょうが、 記録が残ったのがその時代だけだった (もっと古い時代にも実はあった) という可能性もあります。