[3] 遼史 は、 最初の年 () を 「唐天復元年,歲辛酉」 と唐の元号で書きました (y~1290)。 それ以後は 「明年秋七月」 「明年春」 「明年歲甲子,三月」 「明年七月」 「明年二月」 とかなり強引に「明年」で書き繋ぎました。 >>1
[2] その次 (文脈によれば更に翌年, ) に、 「元年春正月庚寅」 として、 初代太祖の皇帝即位記事がありました。 「九年春正月」 「冬十月戊申」 まで続きました。 >>1 (y~1966)
[4] その次 (文脈によればその翌年) に、 「神冊元年春二月丙戌朔」 とありました (y~395)。 以後元号で書かれました。 >>1
[6]
即位紀年の時期のことは、
「太祖元年」 (遼史表) >>20、
「
[11] 中文版维基百科は、 天復の次の (最後の) 唐の元号の天祐を契丹では2月 (10日 >>15, >>17) まで使ったとしました。 >>12, >>17 最初の元号である神冊の改元直前を指すようです。
[16] 以前は一時12月までとしていました。 >>13, >>14 その出典は中国歴代年号考でした。 >>17 (2月の出典は遼史でした >>17。)
[19] 中文版维基百科は、 天祐の開始を4年 () としていました。 >>12, >>18 (以前は一時、元年からとしていました。)
[25] 契丹と遼 (時代により国名が違いますが、同じ国でした。) は、 元号を使っていました。
[26]
現在では漢字で書かれた元号名がよく知られていますが、
契丹文字の元号名もありました。
[28] 遼が渤海国を滅ぼして建国した東丹国は、 遼本国の属国でしたが、 独自の元号を使っていました。
[21] shirin_001_2_206.pdf, 羽田亨, , https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/246801/1/shirin_001_2_206.pdf#page=24
[39] 西遼の年号: suchowan's blog, https://suchowan.at.webry.info/201410/article_7.html
[38] 天統 (天统), 元統 (元统) >>36, >>37
東遼の元号は調べると「元統」と出るんですが、先生方の記述によりますと、
「元統」と記載のある「元史」は誤記であって、「天統」が正しいとの事です。 当方は未確認ですが、ソースは「论金代官印的学术价值」に記載ありとの事。
[30] 後遼の最後の2人の君主、 耶律统古与 (-) と耶律喊舍 (-) が天授を使ったとする説がありました >>32。
[35] 天授通宝という貨幣があって、 年号銭説がありました。 >>34, >>36
[31] この元号を掲載しているものは少なく、 中文版Wikipediaなどは元号欄を空欄としていました。
「天授」とは何か?
大先生によると後遼国の最後の元号”天徳”の後に、”天授”があったとの説明でした。 当方はよく判りません。 違う視点で調べた所、
遼の第3代皇帝である耶律兀欲の諡号が「天授皇帝」ではないですか。 その説が当たっていれば鋳造は天禄の頃という事になります。
1218年,统古与复杀金山而自立,称辽国王,改元“天授”仅数月,喊舍又杀死统古与,亦自立为王,仍沿用“天授”年号,长达近两年。
蒙元时记汉地史实很少,对汉地年号多有错漏,连最亲信东辽国的年号“天统”,都错记为“元统”。《元史》怎会记录一个叛逆集团的僭伪年号?金国此时已行将就木,奄奄一息,又远在数千里之外,更不会关心边鄙之事。