秩父久那嫩桑館の史

秩父久那嫩桑館の史

新井治兵衛

[1] 検索すると新井治兵衛近世近代にいくつも見つかります。 秩父にあって村役人を務めた名士の家で襲名してきた名前でしょうか。

昭和の新井治兵衛

[50] 日本国埼玉県秩父市大字久那在住。 >>34

[40] 経歴 >>34:

  1. [41] 大正4年1月22日生まれ。
  2. [44] 高等小学校卒。
  3. [45] 百姓を営む。
  4. [46] 昭和19年 大日本帝國海軍応召。
  5. [47] 船舶兵として円慶丸に乗船。 シンガポール北スマトラバンカ島などを航行。
  6. [48] 昭和20年以後 復員、復職。
  7. [49] 郷土史家となる。

[2] >>1昭和の頃の当主が郷土史家をしていた感じでしょうか。

[64] 坂東平氏千葉鏑木 : 伝記, 鏑木清春, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/12255463/1/111?keyword=%E6%96%B0%E4%BA%95%E6%B2%BB%E5%85%B5%E8%A1%9B (要登録)

久那口碑録

[52] 久那口碑録 は、 新井治兵衛 (>>2) の著書の1つです。

[53] 昭和48年3月に出版されました。 >>23

[54] 現在知られているうちでは、地元の図書館にだけ所蔵されています。 >>51

[55] 古書でもウェブ検索では見つからず、ほとんど流通していないと思われます。

秩父久那嫩桑館の史

[6] 秩父久那嫩桑舘の史 は、 新井治兵衛 (>>2) の著書の1つです。

[36] 題字は楷書系で秩父久那嫩桑舘の史。 奥付や目次では明朝体ゴシック体秩父久那嫩桑館の史となっています。

[37] 奥付によると題名の読みは「ちちぶくなどんそうかんのふみ」。 >>34

[39] 昭和五十二年九月二十五日発行 >>34

[38] 980円。 >>34


[8] 現在知られているうちでは、地元の図書館にだけ所蔵されています。 >>7

[9] 古書としては安価ながら非常に少数のみ流通している模様です。


[5] 嫩桑館は当地にあった城館の呼称です:


[10] 表紙カバー、表紙は宝暦13癸未年12月付けの古文書の写真ですが、 イラストとして使われていて、背表紙の題字と重なるなど、 読まれる想定にはなっていません。 表紙カバーと表紙・背表紙・裏表紙は同内容です。 本文中にも特に説明はありません。

[11] 表紙裏とその隣の見開きは、黄色 (クリーム色) の紙で、この地域の絵図です。 古地図風の構成ですが、左横書きが使われていることや、漢字新字体主体で旧字体なども混じっている具合を見るに、 昭和時代中後期のものでしょう。本書用の描き下ろしないし元々著者が描いて使っていたものでしょうか。 本文中にも特に説明はありません。

[12] 絵図裏は白紙です。その次は内題、その裏は白紙です。

[13] その次が 秩父久那嫩桑館の史目次 で、 1 頁となっています。

[34] p.102 の次の頁番号がない頁に著者略歴と奥付があります。

[35] その裏は白紙。その次に白紙(黄色)1枚裏表。その次は裏表紙裏で白紙。


[56] 本書の執筆の動機は

埼玉叢書や、新編武蔵風土記稿を読んで、久那の事が此の家に伝え られた事柄と、甚々しく異って居り、「叢書には」久那とは、痩地の 意でありと定義して居る。風土記稿にも、何等久那の歴史に触れて居 ない様に思われたのです。

と説明されています。地誌等で地元の扱いが不十分と感じたので自家の伝承で補足する意図ということです。 >>23

[57] そのための材料としては、

此の家に口碑として残り、古文書と して蔵してある事柄が主軸であります

のだそうです。 >>23

[58] であるとすれば、その古文書や口碑を掲載し、それに基づく解釈が与えられているものだったならどんなに良かったかと思うのですが、 残念なことにそうしたものは掲載されておらず、著者がそれらを解釈した結果得られた歴史観が、 あまり整理されていない形で披露されているのが本書となっています。

[59] とはいえ昭和の頃の現地の人の歴史認識を伝える資料として、地域史研究において一定の価値を見出すことは可能でしょう。

[60] >>56 の他、徳川氏の関東入城によって秩父地方の歴史が書き換えられたので資料がない p.38, p.55, p.61 といった趣旨の若干陰謀論方向にふれた記述もありますが、全体の中ではわずかです。 しかしそのわずかが致命的であり、例えば次のような事例があります。

[62] 二十五番入口にある道標銘文に 「宝永三年丙戌四月十三日」 とあることについて、

宝永三年でないと思われる、明和三年に建てられたのを、 代官の指導で年号が操りあげてあると考えられる。

と述べられています。 pp.84-85 ところがその推測の根拠は何1つ書かれていません。 それが様式か何かに由来するのか、それとも銘文に不審な点があるのか、 はたまた筆者の歴史観に合わないからなのか、理由を推測させる材料すら提供されていません。 筆者がそう思ったという以上の情報が何も無いのです。


[63] 関連: 元号年に併記する干支年の特殊表記, 秩父年号

メモ