[72] 古本竹書紀年輯校 - 维基文库,自由的图书馆, , https://zh.wikisource.org/wiki/%E5%8F%A4%E6%9C%AC%E7%AB%B9%E6%9B%B8%E7%B4%80%E5%B9%B4%E8%BC%AF%E6%A0%A1#%E4%BA%94%E5%B8%9D%E7%B4%80
帝堯元年丙子。《隋書·律厤志》引《竹紀年》云:「堯元年丙子」。《路史·後記十一》。
朱氏右曾曰:韓恰《紀年辨證》曰:「皇甫謐、邵康節、金仁山定爲甲辰。」羅泌《路史》在戊寅,章俊卿《山堂考索》在癸未,右曾案,《通鑑外紀》在戊辰,其論不一。又《竹書》作於魏人,去古較近,似可信也。古人不以甲子名歳,自王莽以下,書言:「始建國五年,歳在壽星,倉龍癸酉」,又云:「天鳳七年,歳大大梁,倉龍庚辰」是始變古。原古人之法,以歳星定太歳之所舍。星有超辰,則太歳亦與倶超,故不可以甲子名歳也。東漢以來,歩厤家廢超辰之法,乃以甲子紀年,以便推算,此「丙子」二字,疑荀勗、和嶠等所增也。《路史·後記》注:「《竹書》云:『堯元年丙子』,故隋袁象先云:『堯以景子受命,四十九年得上元第一紀甲子。天正十一月庚戌冬至至仁夀甲子,凡八經上元。』」然考堯以戊寅卽位,四十七年始得天正甲子,是年冬至日在虚一度,爲演紀之端。在位百年禪舜,舜五十年起戊午,自天正甲子至開元甲子,三千一年,日退三十八度,四千一百二十八分。日在斗十度,下至皇朝慶厤四年甲申,凡三千三百一十一年。日退四十二度,五千五十八分,是歳冬至在斗五度。以歳差考之,毎七十八年差一度。則堯甲子歳,日至在虚一度,于是中星皆正。皇甫謐、邵堯夫皆以堯爲甲辰卽位、舜以壬午、堯在位七十載,皆誤。
[78] 단군기원 - 나무위키, https://namu.wiki/w/%EB%8B%A8%EA%B5%B0%EA%B8%B0%EC%9B%90
[79] >>78 は竹書紀年が西暦紀元前2145年丙子説を主張した、 と書いています。
[80] 竹書紀年だけからが導けるのかはよくわかりません。 (そのような解釈も可能であるにせよ。)
自唐尭戊辰距至元壬申凡三千六百五年編其世代歴年為一書
>>90 または
自唐尭戊辰至至元壬申、凡三千六百五年
>>91 /19 とあります。
[109] 付の記事で
算學也是元朝重視的科目。至元八年許衡爲國子祭酒,設置國子學科目,除傳統的經學、禮儀外,還有書、算等科目。爲了教蒙古生習學算術,許衡親自編著了《編年歌括》一書,自唐堯戊辰,至至元壬申,凡三千六百五年,編其世代歷年,令諸生誦其年數而加減之。將背誦歷史知識與演習算術加減融爲一體(57)《許衡集》卷一○《編年歌括》,中州古籍出版社,2009年,243—247頁。。
と書いたものがあります >>108。 編年歌括 の引用とその前段の説明部分が 許衡伝 とよく似ています。 同じ許衡の著書ですから、 こちらがオリジナルでしょうか。
[110] 許衡は元の儒学研究者で、 改暦にも関わっていました。
[93] (y~1082) から3605年遡るととなります。
[94] 唐尭戊辰は即位何年か書いていません。 近代日本の研究者今西竜は、 元年だから書かなかったのだろうと述べています >>91 /19。 至元壬申が9年なので唐尭も元年とは断定するのは若干躊躇されるところはありますが、 文脈上、在位中の中途半端な年から数える必要性も感じられませんので、 元年と推測することには一定の妥当性があるでしょう。 また、原著者の意図とは別に、 読者に元年と認識された可能性は十分あるでしょう。
[95] 従って唐尭元年戊辰説が元の時代に行われた説 (の1つ) であると推測できます。
[96] 高麗で元年戊辰説があるのも、元から伝わったものと推測されます。 >>91 /19
[50] 三國遺事/卷第一 - 维基文库,自由的图书馆, , https://zh.wikisource.org/wiki/%E4%B8%89%E5%9C%8B%E9%81%BA%E4%BA%8B/%E5%8D%B7%E7%AC%AC%E4%B8%80
以唐高即位五十年庚寅唐堯即位元年戊辰。則五十年丁巳。非庚寅也。疑其未實
[111] 단군기원(檀君紀元) - 한국민족문화대백과사전, https://encykorea.aks.ac.kr/Article/E0013543
[112] >>111 によると 稽古錄 と 資治通鑑外紀 が元年戊辰説。
[115] >>113 >>114 の稽古錄には元年干支は確認できません。 尭󠄁の在位年、年齢はあるので他と合わせて計算できたりするのでしょうか?
[117] >>116 は尭󠄁の元年に戊辰、戊寅、辛卯の3説を書いています。
[68] 經世之未二千一百五十六、甲辰に堯即位 >>65。 經世之未二千一百五十七、甲子が堯21年 >>69。
[70] 皇極經世書の数え方では が第1世第1年で1世 = 30年。 2156世甲辰年は 。 2157世甲子年は 。
[101] 資治通鑑前編に、 「堯以甲申歳生甲辰即位」 とあります。 >>91 /20
[104] 以後多くの歴史家が 皇極經世書および資治通鑑前編 の説を踏襲しました。 >>91 /20
[103] 竹書紀年集註 によると、 皇極經世書および資治通鑑前編 は世紀 の説に従ったものです。 >>91 /20
[60] Page:Sibu Congkan Sanbian076-查繼佐-罪惟錄-60-09.djvu/85 - 维基文库,自由的图书馆, https://zh.wikisource.org/wiki/Page:Sibu_Congkan_Sanbian076-%E6%9F%A5%E7%B9%BC%E4%BD%90-%E7%BD%AA%E6%83%9F%E9%8C%84-60-09.djvu/85
[58] 筆苑雜記卷之一 徐居正撰 : 네이버 블로그, https://m.blog.naver.com/PostView.naver?isHttpsRedirect=true&blogId=wonpa5&logNo=220239159535
嘗考。自唐堯元年甲辰。至洪武元年戊申。摠三千七百八十五年。自檀君元年戊辰。至我太祖元年壬申。亦三千七百八十五年。吾東方歷年之數。大槩與中國相同。帝堯作而檀君興。周武立而箕子封。漢定天下而衛滿來平壤。宋太祖將興而高麗太祖已起。我太祖開國亦與太祖高皇帝同時。
古記云。檀君與堯同日而立。歷虞夏至商武丁八年乙未。入阿斯達山爲神。享年一千四十有八。當時文籍不傳。其眞僞不得而考。至今傳襲。以古記爲說。居正以爲當堯之時。人文昭宣。至于夏商。世漸澆薄。人君享國久長者不過四五十年。人壽。上壽白年。中壽六七十年。下壽四五十年。安有檀君獨壽千百年以享一國乎。知其說之誣也。又云。檀君生子扶婁。是爲東扶餘王。至禹會諸侯於塗山。檀君遣扶婁朝焉。其說無據。若檀君享國久長。扶婁往會塗山。則雖我國文籍不備。中國之書豈無一語及之乎。檀氏相傳享國之數。千四十八年者。無疑矣。權文忠公近詩曰。聞說鴻荒日。檀君降樹邊。世傳不知幾。歷年曾過千。蓋言其傳世歷年之久也。
[106] 唐堯元年甲辰からまで3785年。
[105] 路史 に、 「堯以戊寅即位」 とあります。 >>91 /20
[61] kiyou24-01.pdf, , http://archives.pref.yamaguchi.lg.jp/user_data/upload/File/kiyou/024/kiyou24-01.pdf#page=9
[64] 朝鮮古史の研究, 今西竜, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1921111/1/20
[10] 帝堯紀年 >>1, >>2, >>8 (唐堯紀年 >>7) は、 清末に使われたとされることのある帝堯に因んだ紀年法 >>1, >>2 です。
[16] Yáo's Era >>1, Yáo year >>7, Anno Neii >>9, AN >>9 といった訳語が使われることがありますが、 定着したものではなさそうです。
[15] 中文版维基百科は西暦紀元前2156年が元年であるような説明になっています。 >>9 y~1731
[14] English 版 Wikipedia は西暦紀元前2156年が元年としています >>7。 y~1731
[17] English 版 Wikipedia は西暦紀元前2333年の誤りではないかと指摘しています >>8。 明確な根拠は示されておらず、紀年法としての確実な情報によるものではなく、 尭の時代とされるものの推定年代に基づき指摘しているようにも思われます。
[18] 清末の辛亥革命前の紀年法としてしばしば列挙されるものの1つですが、 いつどこで実用されたのか説明するものが全然ありません。
[19]
日本でに出版された書籍に、
[34]
この年は >>14 とも >>17 とも年が一致しません。この書籍は時期的に微妙で、
清国人から情報を得たのか、日本でまったく独自に計算されたのかわかりません。
この書籍には黄帝紀元の記述もありますが、
そちらも年数が清国人のものと一致していません。
[35] いずれにしても現在帝堯紀年として紹介されているものの直接の関係はなさそうです。
[24] 梁啓超の 論紀年 (壬寅とあるのでが初出か) が、 黄帝紀年, 帝堯紀年, 夏禹紀年, 秦統一紀年, 孔子生後紀年を列挙していました。 >>23, >>21 しかし帝堯によって紀するのは云々、といった形で年数も名称も確定せず挙げているだけです。
[36] やの日本の論文では、 孔子紀元や共和紀元や黄帝紀元の他に、 帝堯紀年, 夏禹紀年, 秦統一紀年を使いたがる者がいたとしています。 >>39, >>5 その書き方は梁啓超の論文とよく似ているので、 同系統の情報と思われます。 これらの論文も後者3紀年は実用されたとは書いていません。
[20] こうした文献の記述が伝言ゲームで実在の紀年法と誤認された、 幽霊紀年法の可能性があります。
[26] English と中文の Wikipedia >>25, >>9 は出典に同じ論文らしきものを引いています。 英語の題名で探すと
... というものが出てきます。ページ数が一致しませんし、 題名もしっくりきません。そこで同じ雜誌の号を見ると
... というのがあって、こちらが正しそうです。 誤って次に掲載された論文を引いてしまったようです。
[31] そうだとすると中文版维基百科がなぜ論文の題名を省いて引用しているのか疑問が湧いてきます。 English 版 Wikipedia も中文の題名を記述してはいけない規則はないはずなのに、 なぜ英題だけが書かれているのか。 ページ数を同じように誤っている両版が独立した引用ではない可能性は高いですし、 原論文を読んでいない孫引きの可能性も否定できません。
[30] >>29 このウェブページ掲載の論文が書籍の原論文と同文だとすると、 梁啓超の論文を紹介しているだけで、 それを引用している両版 Wikipedia と一致するのは紀年法の呼称くらいしかありません。
梁启超也为其师所倡导的孔子纪年做过一番宣传推广工作。1898年底梁启超作《纪年公理》,认为各国相通后,应有统一的纪年,并把当时中国的形势与西方世界对比:“当各国之未相通也,各自纪年,盖记号必不能暗同,无可如何也。及诸国既已相通,交涉之事日多,而所指之年其代数记号,各参差不相符,则于人之脑筋甚劳,而于事甚不便。故孔子作《春秋》,首立此义,所以齐万而为一,去繁而就简,盖有精义存焉。”[2](p35)这种说法淡化了纪年的政治含意,在这种策略下,推广孔子纪年所受到的阻力较之康有为相对要小。他在1902年发表的《新史学》强调了采用“孔子纪年”的重要性,主张用孔子生日作为纪年。认为采用孔子纪年有四大好处:“符号简,记忆易,一也;不必依附民贼,纷分正闰,二也;孔子为我国至圣,纪之使人起尊崇教主之念,爱国思想,亦汕然而生,三也;国史之繁密而可纪者,皆在孔子以后,故用之甚便。其在孔子前者,则用西历纪元前之例,逆而数之,其事不多,不足为病,四也。有此四者,则孔子之纪元,殆可以俟诸百世而不惑矣。”[3](p32)当然,梁启超也不反对用其它纪年,在他看来,无论是黄帝纪年、帝尧纪年、大禹纪年,还是秦纪年,都可以使用,也都有其理由,但用孔子纪年肯定会得到更多的人所认可。
という箇所だけです。 >>29
[33] 両版 Wikipedia の当論文への参照が文章中のどこからどこまでに掛かっているのか曖昧ではあるものの、 その曖昧性によって信頼性を誤認させる一種のソースロンダリングと非難されてもやむなしでしょう。
[37] それでは両版 Wikipedia の年数はどこから出てきたものでしょうか。 当論文が本来の出典ではないとすると、各紀年法名とその説明とあわせて、 なにか別の出典から採られたものでしょうか。 それとも紀年法名の一覧だけをどこかから拾ってきて、 独自研究で年数を付与したのでしょうか。
[49] 檀君紀元との関係を指摘する者もありますが >>8、 直接的な関係は認められません。
[13] 唐堯紀年を使った小説がありますが、微妙に違った説をとっています。 「左右」と書いている >>3 ので濁してあるのかもしれませんが。
[40] 夏禹紀年 >>2, >>1 は、 清末に使われたとされることのある夏禹に因んだ紀年法 >>1, >>2 です。
[41] Xià's Era >>1 と訳されることもあります。
[42] 夏禹紀年 (大禹紀年) はやはり梁啓超の論文で触れられており、 清末に提唱された紀年法案の1つとして列挙されることがあります >>23, >>5, >>21, >>29 が、実用されたとする根拠が見当たりません。
[43] なお中文と English のWikipediaには夏禹紀年がなく、 これを欠いた別の情報源があるのでしょうか。
[44] 秦統一紀年 >>2, >>1 (統一紀年 >>9, >>7) は、 清末に使われたとされることのある秦の始皇帝の中国統一に因んだ紀年法 >>1, >>2 です。
[45] Qín's Era >>1, Unity year >>7, Anno Unitatis >>9, AU >>9 と訳されることもあります。
[47] 中文版维基百科は西暦紀元前221年が元年であるような説明になっています。 >>9
[48] English 版 Wikipedia は西暦紀元前221年が元年としています >>7。
[46] 秦統一紀年はやはり梁啓超の論文で触れられており、 清末に提唱された紀年法案の1つとして列挙されることがあります >>23, >>5, >>21, >>29 が、実用されたとする根拠が見当たりません。
[86] 高麗では避諱で尭󠄁でなく高と書かれました。 >>85
[85] 朝鮮古史の研究, 今西竜, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1921111/1/13