安仁年

安仁年

[22] 安仁年は、元号年のようなものの1つです。

用例

日時事例

[9] の5月から9月に財団法人山形県埋蔵文化財センターが行った発掘調査で出土しました。 >>129, >>3

[10] >>4 が出土した溝が機能していた時期は判然としないものの、 12世紀末から14世紀が中心と推定されています。 >>129

[11] 第1字は梵字𑖤𑖽と読まれています。 >>7 を見る分には何らかの漢字である可能性も排除しきれない字形であるものの、 反対面にも同じ文字があり、そちらの面は全4字がすべて梵字として読まれています。

[12] また、 >>7 によれば第1字𑖤𑖽と第2字の間には微妙な間が置かれているようにも見えます。

[13] 第2字以後は、 >>7 によれば、少々崩れているものの比較的わかりやすい字形で書かれています。

諸説

[23] 第1字は梵字とし、残りを漢字日付として読むことは、 この読み方の妥当性が議論された記録は見当たらないものの、通説となっています。

[24] この種のものを見慣れているであろう調査担当者や地元研究者の釈読であり、 尊重し信用して良いと考えられます。

[25] しかし、だとするとが3文字だけになって、元号名元号年として不自然です。 先頭2字は既知の公年号私年号のいずれとも一致しません。

[26] 唯一 >>18 が知られていますが、つながりは薄そうです。

[27] 従って、現在まで通説といえるものが成立していません。 地元の研究者らの間では議論がなされているのではないかと思われますが (>>134)、 Web 上で記録が残るものはごくわずかです。

[28] 「安仁」 を元号名とみなす解釈 (>>21) がありますが、その場合は「安仁年」 がどのような構造で、なぜそう書かれたかを考える必要が生じます。

[29] 安貞省略形とする説 (>>16) は、現在知られている中で唯一、 一つの説として成立している解釈です。 有力説といえますが、 今後補強材料に恵まれることを期待したいものです。

[30] 令和時代に至るまで、私年号研究の文脈で紹介された事例は知られていません。

研究史

[130] に調査担当者の一人でもある丸山晶子が記述した報告では、 >>4 について、 「安仁年」は 「年号には実在せず、私年号にも今のところ認められ ない。あるいは書き間違ったものと思われる」 としています。 >>129

[31] しかし書き間違いだとしても、何を間違えたのか候補がないことには、どうとも評価が困難です。

[14] 木簡庫 は、 >>4 を収録し、

和暦安仁年2月9日
西暦2(月), 9(日)

... としています。 >>1133

[32] 何らかの年表記ではある、との解釈でしょう。


[21] 佐藤圭の論文では、 「「安仁」という年号が存在しない」など検討の余地があるとしつつ、 共伴遺物から13世紀・14世紀に分類しています。 >>20


[16] 開催の研究会で発表され、 に発行された山口博之の論文では、 >>4 は様式と月日から、 安貞1字に省略されたものと推定されています。 >>134

[134] 東北地方の塔婆類と野々江本江寺遺跡出土塔婆, 山口博之, 2012年3月, , https://www.ishikawa-maibun.jp/wp-content/uploads/2019/05/jouhou_27.pdf#page=46

後田遺跡の年代であるが確実な紀年銘に恵まれないのだが、笹塔婆の一部に「安仁年二月九日」と 記されている資料がある。この文言をどう読むかについては議論の分かれるところであり明確な結論 は出されていない。私案ではあるが「安仁年二月九日」は、「安貞二年二月九日」を略したものと見 ておきたい。この資料自体笹塔婆としては大型であり、鎌倉時代までさかのぼる古い様相を持ってい ること。また日本の年号で安を配するものは鎌倉時代では安貞のみであること。二月九日はおそらく 時正であり彼岸をあらわし、時正は鎌倉時代から板碑など石造物に記されることが多くなること。さ らに紀年には慶長五年を慶五と年号2文字目を略す場合などがあること。などによる。こうした推定 により木簡の紀年を安貞二年と見れば1228年ということになる。これ以前の安元二年(1176)も考察 の対象ではあったが、12世紀代の遺物はまったく見ることができなかったため除外している。

関連

[18] 日本国京都府京都市左京区静原琴平神社の社殿に、 「安仁」年中云々とあります。 >>17, >>1

[19] 記載内容からみて、仁安あるいは安元の誤りと考えられます。

メモ